今日も生きちゃった
母は兄と弟をよく褒める。
兄に対しては「あの子は頭がいいから」と自分を投影させ、弟に対しては「あんないい子にどうやったら育つのかとよく聞かれる」と自分の育児の正しさを称賛されることで溺愛していた。
その中に絶対的な入らない人間、それは私だ。
兄や弟のようにスポーツも勉強もできず、常に落ちこぼれていて、一体誰に似たのか注意欠陥多動性多弁でとにかく大人たちからは「手のかかる」「空気の読めない」「バカな子ども」として扱われてきた。
その姿は教師たちにも不真面目で気に入らない子どもとして映った。
要領が悪く、怒りやすい子どもは大人にとって丁度いい憂さ晴らし、格好の餌食となる。
怒る理由、怒鳴る理由、嘲笑う理由が作りやすいからだ。
なんで?どうして?と聞いても「なんで分からないんだ」「お前に言っても理解できない」と無碍に扱うくせに、「分からないなら何で聞かないんだ」「こんな事も分からないのか」とキレ散らかす。
理不尽極まりない。
そんなことを繰り返すうちに、私は段々と黙ることを覚えた。
親が言ういい子は勉強ができて、周囲から褒めてもらえて、自慢できる、自分の育児の結果を世の中に見てもらって,評価をしてもらえる子どもであって、間違っても私のように「なんでこんな事もできないんだ」と言われる子どもではない。
理想と現実の中で、兄と弟は紛れもなく理想通りの子どもだった。
理想通りにいかなかった子どもには人権はない。
だって、欠陥品だから。
私がいくら殴られていようと、バカにされていようと、それは「兄の言葉を理解できない、空気を読めない私が悪い」ということになる。
褒められた事は、ほとんどない。
傷ついた私に寄り添って話を聞く、私の痛みに共感するなんて時間の無駄だ。
私は自分が生きてる意味がわからなくなった。
だって代わりはいくらでもいるし、私の代わりに頭のいい兄がいて、孫まで見せてくれた優しい弟がいる。
生産性のない私はどこまでも不必要な人間で、家族と呼ぶのも烏滸がましい存在なのだと突きつけられる。
家族という輪があって、その輪の中には椅子がある。皆その椅子に座って談笑し、共感し、楽しく過ごしているのに、私の椅子だけがないのだ。
仕方ないから床に座って、相手の話に耳を傾け、なんとか話題についていこうとするけれど、私が発言した瞬間、「何言ってんだ?」と怪訝な顔をされ、私の発言は無視されて、また楽しく会話がスタートする。
いつもこれの繰り返しだった。
言葉を発する事がこんなに気まずくて、怖いなんて思わないだろう。
私は存在しててもいいのか?
私はなんで生まれてきたんだ?
私がまだ生きてるのは、死にたがりなのに上手く死ねなくて、いつもどこかで「まだ家族としてやり直せるかな」と思っている、ダメな人間だからだ。
生産性がない役立たず。
それが家族と再構築を図ろうなんて、無駄な事だったのだ。
だって元々、家族じゃなかったのだから。
物事にも優先順位があるように、親や大人たちにも子どもに対して優先順位がある。
私が大切にしたいものと家族が大切にしたいものは違った。
違う人間だから…仕方ない。
弟が風邪をひけば母は仕事を休んでつきっきりで世話をした。
兄と弟は同じスポーツが好きで、一緒に練習ができるが、私はボールをドリブルさせることもできず、邪魔になるだけ。
私がやったことは怒られるが、兄や弟が同じことをしても怒られることはない。
弟が失踪したら慌てふためき、泣きながら「死んだらどうしよう」と警察にまで行くのに、私がいなくなっても「どこ行ってたの?」で終わる。
兄の誕生日にはロブスターを食べに行き、好きなものを頼めるのに、私の誕生日は「ラーメンが好き」というだけで、いつも中華だった。特に好きでもない食べ物を食べ、残すと「なんで食べないのよ」と責められる。
20歳の誕生日は家でひとりだった。
兄は友人と過ごし、母と弟は部活の遠征で長野あたりにいた。
母からは「お誕生日おめでとう、一緒にいられなくてごめんね」とだけメールがきた。
私のそばには、私が拾ってきて家族として過ごした猫だけがいた。
その母からのメールがひどく私を傷つけた。
でも、そんな事母は覚えてもいなかった。
節目を祝うに値しない存在。
成人式は私だけ着物を買ってあげた、と母は言った。兄と弟には袴でも着せたかったのか、それは分からないが、「お前だけだよ成人式を祝ってもらったのは」と言われた。
でも、それは私が頼んで買って貰ったものだ。
そんなに恩着せがましく言うほど買うのが嫌で、嫌々祝ってもらったのかと驚いた。
私の着物一枚で兄と弟にもっといいスーツが買ってあげられたというのか。
私は普通にもなれないし、大切にされることもない。
物を買い与えても「大切にしないから無駄」
どこかに連れて行っても「連れて行き甲斐がない」
何を食べさせても「本当に覚えてないのね」
とがっかりされる。
記憶に残せない私をどこかに連れて行ったり、何かいい物を食べさせるのも時間の無駄で、それを素直に楽しめる弟のほうが可愛いし、記憶して周りに自慢してくれる兄の方が連れて歩くには母にとって都合がいい。
私はそのどれもできないからだ。
私は褒められた事がない。
それは兄よりも要領よく立ち回れず、弟のように愛嬌がない、不器用な生き方しかできないからだ。
私が明日死んでもきっとこの人たちは、翌日には私の存在を忘れるだろうし、そもそも家族だった記憶が残っているかわからない。
生きていく意味がわからない。
わからないけど、死ぬのが下手くそな私は理由もなく今日もまた、死ねないまま生きている。
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