咳をしてもひとり
人生は選択の連続だ。
どっかの誰かがそんな事を言っていた。
確かに選択を迫られる場面は人生の節々で必ずある。
どうも私は選択を間違える事が多い。
学びがないとも言える。
家族との縁も上手く切れず、心のどこかで「まだ話し合いの余地があるんじゃないか」「分かり合えない事もあるけど、私が譲歩する事で進展できるんじゃないか」そんな甘い考え方が頭をよぎる。
でも、それで今まで物事がいい方向に向かった事はない。結果的にモンスターを製造してしまうだけだ。
そこも含めて分かっているのに、捨て切れない弱さがある。
話し合いが無駄に終わると分かっているからって、話し合わないで終わりにするのは良いのか?という疑問。
縁を切る事で心にわだかまりが残らないかという不安。
私が犠牲になれば他の誰が助かるという自己犠牲という名の自己満足。
言いたい事も言えないこんな世の中じゃ、ではなく、言いたい事を言う事で「アイツらと同じになるのでは」という不安の方が大きい。
自分中心に好きな事を好きなように生きてきた親や兄弟を見て育った私は、「他人の事を蔑ろにして自分の欲求を満たす」という行為が許せないでいる。
自分の好きな事だけ、身勝手にやる。
この選択をする事は、自分が一番嫌いな人間と同レベルに落ちるという恐怖でもある。
自分の欲求に忠実で、人に迷惑をかけても自分が良ければそれでよく、相手の気持ちを踏み躙り、自分が楽しければ満足する。
そういう人間たちの仲間に入ることが怖い。
自分の人生、好きに生きたらいいじゃない。
そう思うけれど私にはあと一歩踏み出せない弱さがある。
「家族じゃない」と自分の気持ちを始めて吐き出した日。そんな事を言われると思っていなかった母は憤り「それなら分籍してもいい」と言った。
籍を抜く。
これが1番いい方法なのだと思った。
家族だった人たちはどうしても誰かの「上」に立ちたいという気持ちが強い。そして、責任を誰かになすりつけて生きていきたいという気持ちが強い。
誰かが歩み寄ってくれる。
少数の賛同者が本人たちにとっては「全体の意見」になる。
声を上げても、自己主張が強い方の意見が採用される。
この家族の中で私だけが異質で、私だけが非常識な裏切り者になった。
縁を切り、分籍することで、「家族の力」を脅かす不安分子を切り離す。
話し合いなんてできるわけがない。
最初から誰もが話し合いをしたいなんて思っていない。
歩み寄りたいという気持ちも、どこまでも独りよがりな事だった。
群れから出た私は、もう群れには戻れないし、戻りたくない。
わだかまりを残したまま、群れから離れた私はもう二度と、家族と会う事はないだろう。
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