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悪口

もともと興味の対象は薄く、固執したり徒党を組むのが苦手。

あの人が誰かの悪口を言っている、あの人とあの人は実は仲が悪い。

悪口言わない人は偽善者、悪口を言わない人は冷たい人。

そんな風に同調する事こそが美しいとされる世界はとても生きづらい。

私は私に直接関わりのない醜聞は見ないようにしている。

人間の会話は複雑で例えば「あの人はやる気がない」「仕事の仕方はどうかと思う」に対して曖昧にでも「そうなんですか」などと言えばそれは同調した事になる。

そして一度同調とみなされると「そうね!って彼女も言ってた。私と同じ意見!やっぱり皆が迷惑しているんだ」と訳の分からない正義を振りかざすダシにされる。

なぜ、「そうなんですね」という曖昧な疑問形が「そうね」の肯定になるのか毎回不思議に思う。

それに対して反論すれば、自分が否定されたと思うのか、話がすり変わり非難対象が瞬時に入れ替わるのだからその時間をただやり過ごすしか手はない。

わざわざ悪口や非難を伝えに来てくれる人間も同様で、私を非難していた人が目の前にいるならばそれと対話するのは私なのでとても単純明快なのだが、非難してきた相手がいない中で第三者に「非難していた内容」を伝えられる時は本当に、本当に第三者の気持ちが分からない。

それを聞かされた私は「私のこと非難していたと聞いたけれど」とでも相手に聞けばいいのか?それはそれで第三者は私に「秘密を喋った人」になるだけでお互い何もメリットはないように思える。

非難を「あの人が言っていた」を介することで、安全な場所から相手を罵ることができるのだから、第三者はなんて良い立場なのだろう。

怒りの矛先も、敵対する感情や悲しみも全て自分の対岸で起きていることで、まるで自分には関係がないとでも言いたいのか。

その火種を撒き、油まで注いでいるのは当の本人なのだが。

告げ口、という日本語があるくらいだから昔からそういったお節介な正義を振りかざし、要らぬ親切心で相手を斬り付ける人間というのは存在しているのだろう。

そういう人はわざわざ自分で醜聞を拾いに行き「こんな事聞きたくなかった、知りたくなかった」と被害者意識を持って嘆くのだ。

とにかく、相手の話を聞かない。それに尽きるのに…わざわざ自分から炎の中に飛び込んで傷つき、そして「あいつのせいだ」と叫ぶ。

1番良いのは「見ざる聞かざる言わざる」で生きていく事。

だからこそ、職場では言葉に気をつけている。

仕事をしてお金を得る。

それ以上でも以下でもなく、それで良いじゃないか。

誰が誰を非難しても別に構わない。

私の知らないところでやってくれ。

話なら聞くがそれ以外は請け負わない。

それに給料が関わるなら話は別だが、誰かの悪口を聞いても私に一文の徳にならない。

実に無駄な時間だと思う。

そして、その無駄な時間をコミュニケーションと履き違えている人間を心底軽蔑するし

極力関わらずに生きていこうと思う。

人は嘘をつく。

でも、本人にとっては真実で訂正はできない。

彼女たち、彼らたちが「真実」だと見えたなら「真実」なのだ。

相手は変わらない。

変えたいなら自分を変えるしかない。

悪口は言わない、聞かない、見ない、知らない。

ただ、淡々と仕事をこなして、お金をもらう。楽しいだとか、仲良くしたいだとか、そんな事、どうでもいい。

どうでもいいのだ。

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