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言葉と写真

「タイトル未設定」
という記事の下書きが数え切れないくらい存在する。

僕の目を通して心に結像した情景を切り撮った写真たち。
添えるべき言葉が見つからず、インターネットの海に放流する直前でお預けを食らった写真たち。

閑話:
一人で釣りをしている時は水中のルアーの動きをイメージすることに集中している。リールを巻くトルク、ロッドから伝わるトラウトのバイト、吹く風や太陽の日差し、まるで自分がその場の一部になったような感覚。
一人で写真を撮る時も同じような感覚がある。
撮りたい景色が目に入ると瞬時に写真のイメージが浮かぶ。太陽の位置や光の強さ、被写体との距離は無意識に認識される。両手ではカメラのダイヤルを自分の身体の一部のように自然に操作している。撮ることに意識が集中していて自分の存在が消える。まるで電柱や建物の壁にでもなったような感覚。
写真は撮ること自体が特別な行為だ。
目の前の風景を被写体として選んでシャッターを切った時点で写真撮影は完遂している。何らかの理由でうまく撮れていなかったとしても、それは目で捉え意識に浮かんだイメージを写真という媒体に残すことができなかったにすぎない。
写真はそれでもいいとして、釣りはやはり魚が釣れた方がいい。
:休題

「なぜその写真を撮ったのか」
写真表現においては必ず問われるQ。
その写真で自分の何を表現したかったのか
その写真を見た人にどんな感情を持たせたかったのか
その写真を世に出すことで何を起こそうとしたのか

誰かと、特に家族といる時の写真と一人でいる時の写真は全く違う次元で撮られている。
特定の人や場面を撮る時、それは記憶の補完媒体としての役割を果たしている。忘れっぽい僕が自分自身の体験を物理的に残す作業。副産物としてそれが家族にとって思い出の写真になれば僥倖だ。
一人で写真を撮る時、そこに写真を撮る理由は特にない。強いて言えば意識に写真として生起したイメージを同定するための作業。構図、露出、現像は表現ではなくツールでしかない。

なぜその写真を撮ったのか
A→写真のイメージが浮かんだから
まるでトートロジーだけど、ざっくり言うとこんな感じ。
だから写真に状況説明(キャプション)以上のものを付けることが難しい。ステートメントは自分語りのポエムにしかならないし、タイトルなんて尚更だ。

言葉は使わなければ出てこない。
存外に言葉を使う機会は少ない。日常にあるのは会話だけだ。写真を表現するのに相応しい言葉は僕の中から出てこない。
今日も「タイトル未設定」の記事が増えていく。


釣りの最中に写真を撮る。
アングラーからフォトグラファーへの意識の切り替えはない。
僕はその場の空気と一体となったままシームレスにロッドをカメラに持ち替える。
ポンドを一周する。撮影した写真に添える言葉は浮かばなかった。





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