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目から魚の鱗が落ちたなら

私は長い間、研究をしていたわけだけれど、そのことがずいぶんと私に影響を与えているのだろうなあと、今さらながら思う。

研究をしていた時には、周りにほぼ同じような人しかいなかったわけで、何とも思わなかったのだけれど、違う世界に飛び出してみて、気づいたことは、私は変化をして生きることが、ごくごく当たり前になっているのだろうなということ。というか、もはや、そういう生き方しかできない。

私は別にすごく速く変化しているわけではないし、3歩進んで2歩下がる、ような変化の仕方でしかないかもしれないけれど、それでも、何年も同じところをぐるぐるしている周りを見ていると、私は少なくとも、一歩一歩、前に進んでいる感じはするのだ。

そして、それはたぶん、以前からありはしたのだろうけれど、研究する過程で骨の髄まで染み込んでしまった生き方なのだと思う。

例えば、研究をしている時に、本を読むとすると、その本を読んで、一体、何枚、自分の目から鱗を落とせるか、が勝負であったりする。

自分の目から一枚も鱗が落ちないなら、それは研究が何も進んでいないことを意味する。リサーチが進むということは、発見があるということで、発見があるということは、世界の見方が変わるということで、それは自分の中の少なくとも何がしかが変わるということなのだ。

「研究するということは、自分が変わることと同義である」

と、かつて言われた記憶があるけれど、そういうわけだから、やるべき研究は、自分の目から鱗が落ちる可能性があるような研究ということになる。自分の目の鱗も落とせない研究なら、他人の目の鱗など落とせるはずもなく、他人の目の鱗が落とせないなら、それは社会的意義が何もないわけで、研究をする意味がない。

そして、それは歌でも小説でも同じだと思う。
私は歌を歌うことで、小説を書くことで、自分の目から鱗を落としてきたし、できることなら、誰かの目からも鱗を落とせたらと思う。

そういうわけで、私は自分の目から魚の鱗を落とし続けて生きてきたわけで、そして、できることなら、他人の目からも鱗を落とせるような人間でありたいと願っているわけで、だから、これからもそうやって、魚さんの鱗をせっせとはがしながら生きていきたいと思っています。という、魚のお話でした。


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