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衝突とは自分と相手の存在証明であり、善悪はない

昨日は雨、そして明日、明後日も雨だという。

そうであるならば走るなら今日しかないと思って近くの公園まで行って6キロほど走ってきた。コロナ感染者数が減り続ける都内では、案の定、ゆるみなるものが見えて、公園の人は非常に多かった。

釣りをする人、模型の船を池に浮かべて遊ぶ人、ボーッとしながらビールを飲む人。不要不急の外出とは?と正直疑問に思ってしまった。

散歩をしている人も多く、花見シーズンさながらの混み具合で、今日は相当ランニングがしづらくどっかでぶつかりそうで怖いなぁと思いながら走っていた。

そこで、ふと思ったのは、物理的であれ、意見や主張のような精神的ものであれ、衝突というのは他人があってこそなのだなぁと感じた。そして、衝突すること、これすなわち自身の存在証明であるのかもしれないと感じた。

衝突にどちらかの善悪はなく、どちらもただ存在していたのすぎない。当たり屋なんてものがあるけれど、本来ぶつかったことに大してどっちが悪いなんてことはないんじゃないかなぁと思った。

たとえ、ぶつかった相手がすごく高い壊れやすい何かを持っていて、それが壊れてしまったとしても、別にぶつかった自分が悪いわけじゃないと思う。たまたまその人はそれを持っていたに過ぎないのではないだろうか。自分が持っている可能性だって十二分にあるわけだし。

それはむかつくこともあるかもわからないけど、でも、少なくとも相手のせいじゃないなとふと思いました。

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なるべく毎日書くと言ったnoteも今日で47日目。たまにはシンプルに思ったことを書いてみました。

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