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モネの日の出 -印象派の発想-

日の出の印象(モネ)

 学生時代、大学のすぐ前の家に間借りしていたので、元来、ものぐさで通俗的な者だが、孟母三遷の故事よろしく、大学生協食堂で安くて栄養バランスのよい定食を常食とし、大学周りをジョギングしたり、付属図書館から本を借りてきては読む健康的かつ文化的生活が日課だった。特に4回生で時間がたっぷりある時期には、美術全集の大型本を抱えて帰ってはよく眺めていた。今でも、百貨店の美術展を覗くのが好きだが、暇だけはあったあの頃ならではの趣味だったと思う。
 レンブラントやターナー、日本人では、河合玉堂や岡鹿之介などの画集を広げ、色彩や構図、鑑賞時の視線の流し方など、自己流の感覚で絵に対峙していった。中でもモネやスラーの主観丸出しの絵が好きだった。
 1839年にフランス人画家ダゲールが発明した銀版写真が、写実的な絵画の役割を奪っていった。そこで、大きく開花したのが、印象派の絵画である。淡いオレンジ色の色彩感が心地よいモネの日の出、桃色の頬のふくよかな女性たちが愛らしいルノワール、小手先を労さず威厳あるどっしりとした深緑の山を描くセザンヌなど、その印象派の画風は、レンブラントやミレーの絵のように写実性より、個性を全面に表している。その独自性は、見る者の好悪をはっきりさせ、描写力の巧拙よりも人類の普遍的美観にうったえる故に、美術館の殿堂に飾られているわけである。
 現代も、雑誌、ラジオ、テレビからはじまり、映画、ビデオ、はてはインターネットまで、情報過多の世の中で、人が情報を取り入れるにしても、自ら表現するにしても、個性を尊重しなければならないのではないか。
 自習時間の間に合わせにビデオが使われる場合がなきにしもあらずで、視聴覚教材の活用が低調な訳は、よい教材を選び出す時間も、活用計画を練る時間も乏しいからであろうと考えられる。
 そもそも、視聴覚教育の理想としては、生徒たちを見学に連れていけない場面や、言葉以上に理解しやすい動画や音声を提供し、感性や直観にうったえることが重要であると考える。生徒たちが学習する最適な段階で、最適な視聴覚教材を提供することは、準備もせずに間に合わせではできないことである。
 そのための感性や教育効果を図れる企画力を、教師が身に付けなければならない。
 さらに、教師が意図した教育効果が、果たして個々の生徒にあったのか、評価できることが大切になってくる。そのためのペーパーテストにかわる評価方法を工夫しなければならない。
 今日の我々に与えられた、マルチメディアという新しい情報媒体は、我々の選択肢をさらに広げてくれるが、逆に、我々が何を取り入れればいいのか、決めかねるような状況におちいらせる。俗っぽく例えれば、ラーメン屋では、何ラーメンを食べるか決めればよいのが、中華料理屋に入ると、麺にするか、ご飯物にするか、はたまた、餃子をつけるか否か、悩むようなものである。
 モネは日頃より、「私は、小鳥が歌うように描く」と言っていた。無為自然に見たままを正確にとらえて描く姿勢を大切にしてした訳であり、
 印象派の絵画が、日本の浮世絵の色彩や構図から影響を受けているのは有名だが、このマルチメディア時代にも、この浮世絵のように、時代を拓くヒントはないものだろうか。せめて、この印象派の絵画を思い浮かべながら、個性を花開かせた画家たちの感性を、自らの中にも育てたいと思う次第である。        (2006年 高教研の視聴覚教育支部だよりに寄稿)

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