歌舞伎

同じような事を何度もツイートしていると思うのでnoteにもまとめておく。

 同じ事何回か言ってる気がするけど、A氏とB氏を自分が俯瞰するとき、AとBで突っ込んだ話とかキワドイ話をしているとき、自分は両者の関係性をあまり把握できていないので(自分からは見えないところでの交流の有無が不明)、そこに突っ込み入れて制止すべきかどうか不明な問題がある。ポーの法則なんですよ。
仮にAとBが親しい仲でのプロレスであれば、それを第三者が制止するのは野暮であるし。そうでなくガチのハラスメントの場合、未必の故意になるのだろうか。

なので、第三者や不特定が見ている中でのAB間のキワドイ・センシティブなやりとりを披露しているとき、ABどちらかから「私たちは親しい仲です」「綿密な打ち合わせの上での合意です」など、注釈つけてもらえると安心できるんですよね。それが丁寧なムーブと言えるでしょう。


お笑い芸人

実際、芸人が一般人へ打ち合わせのないイジリをしてトラブルになった事例は多数あります。合意と打ち合わせがキチンと有るのか無いのか、判定が難しいケースとわかりやすいケース、色々あります。

ニコ生炎上の「ニューヨーク」謝罪 「パンツマンさんご本人に電話での直接謝罪を希望致しましたが...」: J-CAST ニュース

https://www.j-cast.com/2017/12/29317888.html

お笑い芸というのはアドリブがうまく行くにはコンビの信頼関係、日ごろからの阿吽の呼吸あわせが必要でしょうし、台本であれば綿密な打ち合わせが必要なわけで。一般人はお笑い芸人という人間がどういう人間が知らないかも知れないし、尊重したムーブをするとも限らない。バラエティ番組を理解したYouTuberや芸能人であれば「テレビ的おもしろさ・おいしさ・撮れ高」を追及するという認識が暗黙に一致しているでしょうけども、そうでない一般人ならなおさら認識がずれやすそう。


ネタにマジレス

 Twitterでもよく見かける、掲示板時代からよくある事例、ネタにマジレスすることをバカにする、あるいはガチギレするケースがあります。

ボケる側がネタであることが明確なヒントを出していない場合、マジに捉える人が出ることを咎めるのは難しいのですよね。それはボケ側が自身の説明不足の舌足らずを責任転嫁しているわけで。
「ここまでヒントを出せばさすがにネタとわかるだろう常識的に考えて」のラインが人によって違うので、そこの齟齬でdis-communicationになっている。
ネタや皮肉を意図したか詐欺を意図したかを問わず、高度な嘘は相手を欺瞞してしまう恐れがある。信じさせてしまう。実際どうなの?は種明かししてもらわないとわからない。狂人の真似とて大路を走らば即ち狂人なり。ディープフェイク。昔はたくさんの人が同じものを見て共有していたので、その感覚で現代の不特定多数へのネタのラインを攻めると怪我をする事例。

自分から他人を騙しておいて、いざ実際に騙される人が出たらキレるって意味不明じゃないですか?本人は「きっとネタと気づいてくれるだろう」と思ってやった事なのでしょうけども。

ボケる側の心構えとしては「これをネタと受け取ってくれる人と、受け取ってくれない人が居る」ということを念頭に置いておく必要があるでしょう。もちろん「ネタとわかって受け取ってくれたらいいな」と期待してボケるわけですが、そうじゃなくても怒らない。残念に思うのは仕方ないですが。

情報を受け取る側の心構えは、ネタなのかマジなのかを見極める必要がある事でしょう。眉に唾を付ける。世の中の定番ネタや冗談の作法・教養を身に着け、引き出しを増やす。ああそういうネタなんだ、そういうエンジョイなんだ、と。だって、あまりにも冗談が通じない人というのも窮屈じゃないですか。受け入れられない冗談もあるでしょうけども。


野暮と粋

「俺の歌舞伎が分からねぇって言うのか?!」という衝突が発生したとき、
さすがにそれは分からないほうが非常識やろ・・・というケースと
さすがにそれは分かりにくくて無理があるでしょ・・・というケース
に分かれる。
顔面にサイケデリックな化粧を施して変なポーズとっていたら、さすがにフィクションとわかるでしょう。言わなくても。傾いてんねぇ。

 現代はコンテンツの過剰供給状態で。みんな別々のものを見ている分散型ハイコンテクスト時代(エコーチェンバーや観測範囲問題ともいう)なので、異なるコンテクスト間を跨ぐときローコンテクストが必要にもなる、つまり「これって嘘ですか?」「元ネタは何ですか?」の確認を要する。

虚構新聞が、うちの記事を本当に信じる人がでてきて嘆いて、ある時期から「これは嘘ニュースです」と記事の中に入れるようになった。その辺りが現代に適応したネタのライン攻めと守りの事例として参考になりそうです。

ネタで通じ合うことを期待したが失敗したときの嘆きが、「嘘を嘘と見抜く奴は増えたが嘘を嘘と楽しむ奴はほぼ消えた」。野暮さを嘆いているわけです。でもこの状況の嘆きを正確に言い表すのは「嘘と思ったなら確認せず心の中で楽しんでくれ」な気もする。ハイコンテクストの共有を粋な美学とする上では、確認やマジレスすることが野暮なので。「XXするな」でなく「OOしろ」と言え、という、対偶の言い方なだけですが。

「名刺を見つめる 名シーン!」とギャグを放ったあと、
「これはですね、ビジネスで自己紹介するのに用いる"名刺"と、映画などのシーンの中で特に見所のある"名シーン"との語呂が似ていることをかけあわせた冗談で、そこが面白いんですよね」などと説明されたら萎えるじゃないですか。野暮ですね。


踊る阿呆に見る阿呆 同じ阿呆なら踊らにゃ損々
一緒に踊ってくれる人は大切にしたいですね。