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Colaboを含む「困難な問題を抱える女性への支援」は自己ガバナンスが甘いと女性を傷つける

最近話題のColaboに絡んで、会計に関する問題はともかく、女性支援のありかたについて年末にいくつかのnoteが出ていた。それを読んで自分用のメモとしていたのだが、そこそこの分量になったので保存と共有を兼ねてnoteで公開する。

女性支援事業の強い《権力性》

女性支援事業において、支援者は非常に注意を要するポジションにある。

「そこのスタッフにまた事情を説明して(今日で同じ説明を3回しました)、お財布と携帯をスタッフに預けました。これで自由に外の人と連絡を取ることができなくなります。そして6畳の個室に入ることになりました。 シェルターから出るには、ケースワーカーの許可が必要なようでした。 住むところか働くところが見つかって、自立のメドが立ってから出られます。でもそのケースワーカーがなかなか熱心に相談に乗ってくれないのです」(夏央さん)
 DV加害者が連れ戻しにやってくる危険があるので、シェルターの場所や、入所者の個人情報は絶対秘密。そのため、外出や外との連絡を厳しく制限するのですが、それを「監獄のよう」と感じる人もいるようです。

和久井香菜子「DVから逃げてシェルターに入った女性が見たシビアな現実」女子SPA! 2018.01.07

財布と携帯電話を預けるというのは相当のことで、これを配偶者がやったら普通にDVとして扱われる。第三者がやるにしても人権侵害で、刑務所や、あるいは「誰かに依存するしかない」状況を作り出して洗脳と支配を試みる組織、カルトやブラック企業(違法)等、そのくらいしかないだろう。

DVシェルターで携帯電話を取り上げるのは(他のシェルター利用者の配偶者もありうる)加害者から秘密に保つために行われているという理由があるものの、上記記事中の被取材者は新しい住居や仕事を探すのに苦労し、ケースワーカーの胸三寸でどうにでもされてしまう強い権力関係に苦慮している。必要なのだとしても「必要悪」であり、回避できるなら回避したほうがいいに決まっている、というのが常識的理解だろうし、そのことはすでにアカデミアの女性学の中でも指摘されている。

無意識の加害者である「第三者」の中で、被害者に積極的に近づくのが支援者である。支援者は被害者に対してさまざまな権力をにぎっている。しかもその権力に無自覚な場合が多い。そして支援者は至近距離で「二次被害」という暴力を被害者にふるう可能性がある立場にある。そのような支援者の被害者への暴力について「脅す」「呼び寄せる」「支援/支配する」というキーワードに沿って検証する。支援者はにぎっている権力に気付き、被害者を支援者が代弁しなくてもいいよう社会を変えるべきであると結論付ける。

マツウラマムコ (2006)『二次被害』は終わらない 『支援者』による被害者への暴力. 女性学年報. 26. 102~123.

こういった「支援者が持つ権力性」については、すでに確立している支援事業、例えばソーシャルワーカーやカウンセラーの間では常識として共有されているものである。

権力性の自覚と透明性を確保するガバナンス

DVシェルターを運営するには、配偶者がやったらDVとされることをしなければならない、いわば毒をもって毒を制するようなことが行われている。それをやれば配偶者との縁を切れるかもしれないが、その仕組みが被害者をさらに傷つける二次加害につながる恐れもある、抜身の刃物のような仕組みである。

"支援者"の許可がなければ外部との連絡が取れないという強烈な権力勾配があるならば、支援者側は密室の中でそれをいくらでも振るうことが可能である。不埒なケースワーカーが「私の言うことを聞かなければ外には出さない」などと脅して暴力・性暴力を加えるような事態は――保育士が園児に暴行する程度に――稀であっても存在しえ、それに対して対処できるガバナンスと透明性の確保しなければならない、というのは当たり前だろう。

支援者たるケースワーカーの仕事ぶりは監査されなければならないし、お手盛りの内部隠蔽が起きないようなメカニズムにする必要がある。また「DVシェルター自体が配偶者がやればDVとされることを行っている」という特性を鑑みれば、シェルターからのシェルター、第三の(利益相反のない)支援者と接触できるような仕組みも必要だろう。

貧困支援では得てして支援者が「私の思ってた弱者と違う」となりがち、ないしレベルの低い支援者のたらいまわしにしばしばなる、という証言も多くあり、第三のシェルターに行政機構を入れるのは必然であるように思う。自分が支援団体を運営する立場にあれば、被支援者の女性を第一に考え、スマホと財布を取りあげるという「必要悪」をなすならば、自身を含む支援者を性悪説的に取り扱わなければならない、と考えるだろう。

監視の必要性自体を減らそうという提案もある

DVシェルターで携帯電話を取り上げるのは、他の利用者もいるシェルターの位置を明かさないためという名目がある。そういった問題は、固定されたシェルターを設置するから問題なのであって、最初から分散型で賃貸物件を抱えておき、そこに一時滞在してもらいつつ迅速に新居につなぐ「ハウジング・ファースト」というタイプの支援が最近は進歩的とされているようだ。

私はこれを上記記事で知ったのだが、その記事ではシェルター型の支援に拒まれ(弱者支援者の好みではじかれ)現在は独自で上記ハウジングファースト型を推進している要友紀子氏が紹介されている。

ただ、氏はその名前を検索すると「アンフェ」「アンチフェミ」として扱われていて、立憲民主党の候補者であったが、一部の"フェミニスト"から落選してよかった等の声があることが確認できた。

改善提案をしている人をレッテル張りで非難するのは、私のように裏取して調べた人間に「アンフェと言われてるほうが正しいのでは?」という印象を与えるし、やめたほうがいい。改善とは現状の問題点を指摘するところから始まるので、問題点を指摘してくる相手がウザいのかもしれないが、被支援者ファーストで考えたら現状の問題を指摘するのは当たり前で、それを非難するのはわが身可愛さとしか思えないし、利権の臭いさえ感じて悪印象である。

Colaboはどうなのか

では、話のタネになったColaboがどうなのか、内情は分からないところが多いとしても、外形的に判断できるところもある。

まず、Colaboは一宿一飯レベルで出入り自由とする活動が多いようである。ここまで書いたようなシェルターの問題は、出るのにもケースワーカーの許可がいるというような、配偶者がやればDVというケースが中心の話であり、Colaboはそういった問題からはやや離れている。その点についてはDVシェルターほど差し迫った問題ではない。

ただ、休眠預金活用事業の支援を受けて固定の建物を建てて長期滞在シェルターも運営しているので、そちらではやや潜在的・構造的な課題があると言える。

「行政と繋がれない女性」を強調して行政から離れようとする問題

一方で、今ある問題も指摘できる。まず一つ目は、仁藤氏が厚労省に提出している資料()で度々「行政に繋がれない女性」の保護を主張し、それだけなら理解できるが、そのうえで行政による監査や介入を拒もうとしている傾向である。このうち会計に関する監査の甘さに問題があることは住民監査請求が委員から容認されたことで結果が出ているが、支援内容や支援者の質の維持に関するガバナンスではほとんど問題が指摘されない内容に思う。

Colabo非難側では「闇金ウシジマくん」に出てきそうな弱者搾取ビジネスを想像している人が少なからずいるようだが、現状Colaboがそうだとは私は思わない。ただ、そうでなくとも、それなりにまじめに活動している団体・個人が不埒な一側面を持つことは少なくない。例えば家出少年少女の支援団体で最近話題になった「トー横のハウル」は、所属していたボランティア団体は支持される一方で、淫行された未成年女性が家族に相談したことで逮捕に至っている。今回の騒動でも、Colaboの展示事業とコラボし今回支える会に名を連ねた人物が、女性に覚醒剤を投与して女性に警察に駆け込まれ、覚醒剤取締法違反の疑いで逮捕された事件が人々の耳目を集めた。

Colabo自身も、監査委員から「アウトリーチ支援など本件事業の履行の完了については、具体的に事業の実施状況を確認できるよう受託者に対し報告を求めること」と支援内容のガバナンスの不備を指摘されており、第三者が見てきちんとガバナンスが行き届いているとは言い難い状況だろう。

こんなことを書くと「支える会」あたりが「Colaboはちゃんとガバナンスしている。信用しろ」などといちゃもんをつけてくるかもしれないが、コラボ経験のある「支える会」メンバーから覚醒剤で逮捕者が出たこと(既報)、監査委員会が請求を容認したこと(既報)といった事実からして「信用しろ」は無理があるし、信用を棄損した大きな原因が「支える会」自身なのだから少しは反省してほしい所である。

事業の規模が大きくなれば当然代表が直接は目を配れないところは出てくるわけで、女性支援の実施内容が、配偶者がやればDVに当たるような強権的な方法を使う以上、自らの団体で働く人および自身を性悪説的に扱っていく必要がどこかで出てくるだろう。そこに気を使っている気配は今のところ彼女の主張からは見えてこない。本当に心から女性の人権を守ろうとしているのならば、自分たちの事業が実は女性を傷つけていないかどうか自分たちに批判的な第三者にチェックしてもらおうとするくらいの気概を持ってほしい所である。

また、この件に関してはそもそも厚労省のガバナンスも悪く、「困難な問題を抱える女性への支援に係る基本方針等に関する有識者会議」の有識者8名のうち3人が委託事業の受託者であり、受託者自身に問題がある場合指摘しにくい構造となっている。繰り返しになるが、シェルター事業自体が一歩間違えば人権侵害を指摘されるような手法である以上、問題を隠蔽しやすい構造になっているのは、女性の人権保護という点で問題があるように思われる。現行の支援に批判的な女性支援者も加えたほうがおそらく良く、弱者女性の当事者団体を主催していて立憲民主党の候補にもなっており、シェルターの問題点を認識していた要由紀子氏を入れて、受託者を1人外すのが良いように思われる。

また、Colaboの支援スタイルが肌に合わない女性も相応にいるだろうし、仁藤氏がいくら嫌っていても第三のシェルターとして行政を「いつでも駆け込んでもらっていい」と最初に提示するのが、今の危うさのあるシェルターを運営するうえでの責務のように思う。私企業でコンプラ研修を受けた人間なら、会社から独立した第三者を内部通報窓口とするくらいはみんな知っているだろう。女性支援事業にもそのようなものが必要なはずである。

支援者をデモに動員してしまう権力性

また小山(狂)のnoteでも指摘されているが、Colaboで沖縄に行って政治デモに参加(仁藤氏本人のツイッターに2019年分が多数掲載)しているのは擁護不能である。それがスタッフであるならば、上司と部下と言う権力性を自覚しておらず危険である。「会社の上司が政治デモに行くぞと誘ってきた」というのが危ないのはパワハラ講習を受けたことがあるならすぐにわかることだろう。Colabo擁護側は「政治デモ」を「右翼デモ」に置換したらすぐに問題になるのが分かるだろう。

引き連れたのがスタッフでも危ないのに、もしそれが被支援者であるならばもはや話にならない。ここまで繰り返し説明した通り、支援者と被支援者の間には大きな権力勾配があり、仮に「希望者のみ参加」と主張しても普通は許されない。学校の教師が教え子に淫行して「誘ってきたのは向こうだ」と言い訳しても許されないのと一緒である。




「反権力」を謳っていても、数十人が関与するような団体になってくるとどうしても権力性が出てきてしまう。しかしそういった団体のリーダーが反権力を気取りすぎるあまり自分自身の権力性に無頓着であることはよくある。広河隆一の性暴力や、鳥越俊太郎の淫行事件が典型的であるように思う。

そういった「権力性」が支援事業の中にもあるというのは、既存の支援、たとえば日本ソーシャルワーカー連盟「ソーシャルワーカーの倫理綱領」にも書いてあることであるのだが、「困難な問題を抱える女性への支援」ではまだまだそのあたりのガバナンスが甘い、というのが今回の件の下地ではないだろうかと思う。


なお、この記事自体はほぼフェミニズムの言語を使って書かれており、半端な反論をされても文献を挙げて「反フェミニズム的」と指摘してしまえるように書いているが、半分くらい読んでなんか書いちゃうおっちょこちょいがそこそこの数出るのではないかな、とも感じている。

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