誰もキャンセルカルチャーを奪ったりはしていない

最近、「キャンセルカルチャーを奪い返す」と題する記事が話題になったが、それに対する雑感を少し書いておこうと思う。

キャンセルカルチャーは奪われていない

「キャンセルカルチャー」は、何かで問題視された対象に対し、その雇用主や発言の場を提供しているものに対して集団で押しかけて騒ぐなどの方法で圧力をかけ、雇用や発言の場を奪おうとするような活動を指すことが多い。これらは、法律等で整備されている手続的正義が欠如した一種の私刑であることが大半である。

この問題は、日本でキャンセルカルチャーが語られ出してから短期間のうちに懸念した通りの形で表れた。群馬県草津町で、町長と対立していた女性議員が町長から性被害を受けたと訴えたもので、ネット上の一部の女性活動家に草津町に対するキャンセル運動の波が巻き起こった。しかし、町長の性加害は認められず、女性議員が虚偽告訴と名誉毀損の罪で起訴されることになった(当初から政治的対立者に対するでっち上げ冤罪の色が濃いとは言われていた)。

すなわち、手続的正義に欠く私刑行為が当初の懸念通りに冤罪による人権侵害を生み出したので、キャンセルカルチャーの信用は毀損し、むしろ不正義が問題になるようになった。キャンセルカルチャーを誰も奪ったりはしていないのである。不正義の船に皆で飛び乗って、案の定沈没し、その過程で自ら捨て去ったに過ぎない。

手続き的正義は特に刑罰では重要で、集団で騒いで私刑を行うことを認めてしまうならば、刑罰は取り巻きを多く持つ有力者に牛耳られ、いくらでも冤罪を捏造して弱者を蹂躙することになるだろう。私刑行為を平然と主張する者が不正義として扱われるのは、弱者を守るうえでも当たり前のことである。

キャンセルカルチャーを奪ったものもいない

さて、問題の記事は暇空茜という人物が一般社団法人Colaboが受託していた事業について住民監査請求を行ったことをキャンセルカルチャーを「奪った」行為として位置付けている。

この件については私も2つ記事を書いており、①社会人ならだれでも「やっちゃだめ」と言われる会計行為の証拠が挙げられていたため社会人の共感を広く集めたという推測、②それとは別にColaboが支援者(ソーシャルワーカー等)が二次加害を避けるために必要なお作法を身に着けていない可能性が高く是正の必要があるだろうという記事を書いている。

この2つの記事で、私は暇空茜という人物の名前を書かず、長文の②のほうは住民監査請求の内容とは関係ない内容で書いている。これは私が第一印象として暇空茜という人物の人格に悪印象を抱いていたためで、案の定、後に東野篤子に粘着して周囲から呆れられている。

そんな彼ですら、"主力"の活動は行政法の手続きに則った住民監査請求という手段であり、請求にある程度の相当性が認められたので(滅多に認められない)監査にまで至っている。手続的正義という観点で言えば、"冤罪"を簡単に引き起こすような私刑であるキャンセルカルチャーとは異なるものであり、草津町に冤罪私刑を仕掛けた側が持っていないものをやっているのだから、「奪った」とすら言い難いだろう。

記事の著者は、「キャンセルカルチャーを奪い返す」などと言う前に、法正義の側面において暇空茜のような手合いにすら劣っていることをもっと真剣に恥じたほうが良い。冤罪上等の私刑などという、やればやるほど信用を失う行為を奪ってわがものにしようとしている人間などいないだろう。

知性と正義の両面で一般人にすら落伍する

問題のキャンセルカルチャーの話については、記事の著者が『世界』に書いた論文の引用文献から出典が辿れない(引用部が原典で本当にそう書いてあるか確認できない、ないし引用通りでなさそうな内容が書いてある)という問題提起がなされている。

それ以前に、ジェンダー論関係は出典(引用文献)が怪しく文献にたどり着けないものが多い、という問題も何度か指摘されている。

インターネットでは、社会学等の一部の人文学について、査読システムが機能していない、エビデンス軽視であるといった批判が多く、他分野の学問を修めた衆目からは学者として扱えないというくらいの厳しい意見が出ていた。一方で、それに対する反論として「理系と人文系の評価方法を一緒にするな」という意見も見られた。

翻って、このような出典の怪しさはどうか。「人文学は理系とは違う」と言いつつ、その人文学のお作法すらろくに守っていない状況である。理系的なお作法がなく、人文学としてのお作法も守らないこれらは、いったい何なのだろうか。

私はこの件で、内田樹の「反知性主義」本の件を思い出した。彼はこの本の前書きで、エビデンス重視の科学的態度を「反知性主義」扱いし、自分の直感を「知性」と言い張り、原典のホフスタッターの定義(エビデンス重視のエリートに反感を持つ直感重視側が「反知性主義」)と真逆のものを「反知性主義」と言い張って、それを山形浩生らから批判されていた。

エビデンス軽視という反科学で、かつ人文知のお作法としてホフスタッターの原典の用法を尊重するということさえせず、それでいて「自分は知性的で他人はバカだから俺が偉い」という権威主義に陥っているので救いようがない。最近はShin Hori氏ですら内田に呆れたような短文の引用リプを飛ばす始末である。

この上、「正義」の部分も、キャンセルカルチャーそのものは手続的正義の欠如で危惧された通りの人権侵害を引き起こした加害者であるし、活動家界隈の唱える「正義」への信用はだいぶすり減っていたが、これに加えてロシアのウクライナ侵攻で決定的に損なわれた状態にある。もはや、「正義の活動家」を自認する人々の正義や知性に対する評価はその辺の一般人より低くなっている、というのが現状であろう。

キャンセルカルチャーを誰かが奪ったなんてことはない。自分たちの行為で自分たちの信用を傷つけ続けたうちに、影響力を失っているだけのことである。

どうにしかして信用を回復しないとどうにもならないのだ、私にもいまいち彼らに向いた方法が思いつかない。せめてすぐできるところから手を付けるとして、お仲間内しか投稿しない日本語雑誌でもちゃんと査読をやるなどして、自らを批判して自らを律するなど地道に信用を回復するよう努めるくらいしか、方法はないのではなかろうか。



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