【ショートショート】悪の隙間
「ミックスで」
田中実は、幸福だった。期末にノルマを達成するために毎日終電まで働いた。その甲斐あってか無事部署の目標を達成し満足していた。夏のボーナスが楽しみでならない。田中はご機嫌であった。娘にねだられたアイスクリームをシングルではなくミックスにしたのはそのせいであった。
「いつもはバニラだけなのになんでミックスなの?」
5歳になる娘に尋ねられ、「いつもパパのことを応援してくれるからだよ」と少し噛みながら答えた。現在を肯定できる状況と愛を言葉にできる幸せで満ちていた。
「360円になります」
店員に促され我に返る。「はいはい」と軽快に相槌を打ち財布を取り出す。「この財布もずいぶん使ってるから買い替えないとな」と来る夏の報酬に向けて密かな計画を立てた。
「一万円で」
「ありがとうございました。またお越しください」
釣りを受け取り、店を後にした。娘は口の周りを汚しながら足取りが軽い。「洋服にもアイスを食べさせて…ママに怒られちゃうな」、そう思いながらも居心地が悪いような得体の知れない違和感を覚えていた。
自宅に帰り、アイスを買ってもらったことを妻に報告する娘。服の汚れに気づく妻。「良かったねえ」と娘に笑顔で答える目線は田中を鋭く捕らえていた。苦笑しつつ受け入れる。
夕食を済まし、布団に入る。今日という日の充実感に身を委ねた。久しぶりの休日を満喫し、娘への愛情と家族の大切さを実感していた。
突然打たれた。違和感の理由がわかった。
「お釣りがおかしい」
布団から飛び起き財布を見る。5000円札も入っている。5000円札があるのはおかしいのだ。財布には5000円札しか入っていなかった。アイスクリームを現金で支払ったのだから1000円札しかないはずなのに。釣りを多くもらいすぎている。返しに行こうと思った。日付は0時をまわっていた。逡巡。「まあ大丈夫だろう」と納得させ床についた。
「お釣りが合わないんだけど」
「またかよ」と崎島真司は思った。夫婦でアイスクリーム屋を開店して3年が経つ。3つ星ホテルでパティシエをしていた真司が「食べる人と近づきたい」という夢を叶えるために独立して出した店。開店当初、近所にはなかった本格的なアイスを出す店として繁盛していたが、素材にこだわったアイスは当然単価に反映され、高かった。価格の問題なのか、何が原因だったのか、次第に客足が遠のいていった。駅に近い店舗ということもあり家賃もばかにならない。高額商品を扱っているわけではないので、釣り銭間違いは大きな問題につながらないが、ここのところ立て続けにある妻・加奈子の自称「うっかり」にイライラした。
「どういうこと?」
「なんか5000円足りないみたいなんだよね」
深刻に捕らえてないような様子に真司の心はささくれた。
「みたいってなんだよ。この前も間違えてじゃん。どうなってるの?」
加奈子は、不貞腐れた態度を露骨に出し、「人は間違える生き物じゃん」と小さな声で、まるで何十年も人類の真理を追求した哲学者の言葉のような重厚な雰囲気で有耶無耶にしようとした。
「ちょっといい加減にしてよ。うちも厳しいんだよ!ちゃんと釣りは確認してって何度も言ってたじゃん!」
語気荒く言い放っていた。あまりにも他人事のような加奈子の態度に腹を立てていた。家族はいつも自分のことを理解しているものと信じて疑っていない真司は、加奈子にもそれを強要していた。突如訪れた無気力感に耐えきれず店真司は裏口から出ていった。
「大根2つください」
真司はコンビニで加奈子が大好きなおでんを買った。仲直りの印。大きな声を出すまでのことだったのだろうか。加奈子が自分の気持ちをわかってくれないのが原因だ、などと反省と言い訳を5回ほど繰り返すと店に着いていた。加奈子はまだ店にいた。そして元気がない。さすがに反省した様子だった。いたたまれない気持ちになり、「おでん買ってきたから食べよ」と声をかけた。
「お釣り間違えてなかった、ごめん」
加奈子は所在なさげにささやいた。真司は加奈子の嘘に気づいたが指摘しなかった。こんな風に二人は帳尻を合わせて生きているんだと真司は思った。
後日、田中はアイスクリーム屋に訪れ5000円を返した。「その日に気づいたんだけど、返しそびれてしまって…」と謝罪した。昼休憩をして不在だった加奈子の代わりに真司はそれを受け取り、レジではなくポケットにしまった。おいしいおでんを食べに行こうと思った。
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