仲良しじいちゃんばあちゃんの小さな鮮魚店に捧ぐ
今は亡き母方の祖父母は、小さな鮮魚店を営んでいた。
その店舗兼住まいは、間口が狭く、町屋のような造りをしている。細長い建物の、表口から裏口まで土間様の通路がつながっている。
裏口に面した作業場は、仕入れた魚を運び入れて水仕事をする場所になっていて、いつも水で濡れている。朝、大量の魚をさばいた後はとんでもなく魚臭くなるのだ。
表口を売り場にして、いつも炭火に火を入れて串に刺した魚を焼いていた。
看板もない小さな魚屋は繁盛していた。
ひっきりなしにお客さんが入ってくるため、繁盛していると子どもだった私にもわかった。
お客さんは、主に近所のお母さんたち。
「おーい!おるか~!?」(すみません、お店の方居ますか?の意)とか大声で言いながら、通路を勝手に進んで奥まで行ってしまう。
だいぶオープンな店だ。
近所の人たちは、晩ご飯のおかずを買うために来てくれる。
干物や冷凍品の直送もしていたから、遠方の親戚などへのお遣い物として、魚を送るために来るお客も多かった。
売れ筋は焼き魚と刺身。
焼き魚は直火の炭火で焼いてあるからうまい。
絶妙な塩加減で、すこし焦げた表面はかりっとして香ばしく、余計な脂が落ちる。
自宅の魚焼き器で焼くより、ここで買った方がうまいに決まっている。
一夜干しも売っていた。塩加減が良いらしく、よくお母さんたちにほめられていた。
「みりん干し」という人気商品もある。開いた魚をみりんなどの調味料に浸してから白ごまを振り、天日干しにする。
これまたうまいのだ。
刺身をさばくのはじいちゃんの仕事。
小さな発泡トレーに、大根のツマと刺身を盛りつけ、練りわさびを添えてラップして並べる。
おいしさのためか少しずつしか用意しないし、ほとんど売り切れるため、売れ残っているところを見た覚えがない。
じいちゃんとばあちゃんは毎日4時に起きる。
車で5分ほどの魚市場まで、二人で白いライトバンに乗り込んで行く。
ばあちゃんが場を仕切って、その日仕入れる魚を選ぶらしかった。
市場での二人を見たことはなかったが、何年も後で、体が不自由になったばあちゃんが懐しそうに話していた。
仕入れた魚を、巨大な桶に入れて流水で洗う。
スケトウダラやスルメイカは開いて天日干しにし、
小アジはぐつぐつと長時間煮込んで佃煮に。
イナダ(若いブリ)は刺身に、小さいサバは焼き身にするため、さばいて塩を振り串に刺す。
魚によっておいしく食べられる方法を選び、それぞれ別の処理をして商品にする。
朝から夕方までくるくると動き回り、店の表口と裏口を行ったり来たり。
お昼ご飯もササッとすませて、少し休んだらまた働く。
その代わり夜は早く、18時にはお風呂に入って寝るのだ。
仲が良い二人だった。
よく二人でおしゃべりをしていた。朝起きた瞬間から話していたっけ。少しだけ一緒に暮らしたことがあったから、よく知っている。
ばあちゃんの方が力関係が上で、万事テキパキしている。
じいちゃんはいつも圧倒的に優しい。
「女が強い方が夫婦はうまくいく」と私が信じているのは、この家の影響だと思う。
じいちゃんは実は少し体が弱くて、休みたそうな時もある。
じいちゃんは本当は酒が好きで、一杯飲みたい気持ちもある。
だけど、ばあちゃんに小言を言われないよう気をつけて、目立たぬようにしている。
じいちゃんとばあちゃんには、私の母を含め娘が4人いる。
孫もやたらと多く、いま数えたら14人いる。
4人の娘は全員、ばあちゃん譲りのどっしりとした安産体型であるため、孫の多さも納得だ。
その孫の一人であり、長じて安産体系になる私も、小さなころから魚が大好きで、いつも魚を食べさせてもらった。
時には勝手に店の魚を食べてバレていた。
この店の魚はうまい。「おいしい」より「うまい」が合うのだ。
大事に扱われているからなのか、仕入れた後素早く処理されるからなのか。
あるいは両方なのかもしれない。
いつまでも孫のまま、
店にある売り物の魚を頬張っておいしいとか言いながら、甘えていたかったけれど。
ばあちゃんもじいちゃんも、80代後半で介護が必要になった。
晩年は店を閉めて、町屋特有の通路はリフォームされ、杖や車いすでも通れるようフラットになった。
先にばあちゃんが、次にじいちゃんが体を悪くし、娘たちの介護を受けながら暮らした。
店を閉めたことで急に老け込んだ気もするが、進学のためにとっくに故郷を離れて暮らしていた私が口を出すことではない。
二人を見ると、元気な頃の店のにぎわいを思い出してしまい、人一倍繊細な孫である私は切なくなった。
後でいろいろと分かったことがある。
じいちゃんとばあちゃんは再婚だった。戦後のことである。
ばあちゃんは子どものころ体がとても弱くて、案じた親は「ユキ(雪)」という名を改名し、元気そうな動物の名前を授けたこと。
孫たちのけんかが大嫌いで、けんかのときだけ私たちを叱っていたじいちゃんは、シベリア抑留という過酷な体験を持つ人だった。
帰れたのは大型車両の運転という特殊技術を持っていたかららしいと人に聞いた。
じいちゃんは抑留時代のことを決して語らず、後の想像なので本当のことはわからない。
じいちゃんもばあちゃんも、命の危険を乗り越えて、この世で元気に暮らしていた。
あの店は確かに繁盛し、近所の交流の場にもなっていた。
そのことがとてもうれしい。
私の4歳の息子は、じいちゃんとばあちゃんに会うことはなかった。
けれどこの小さな息子にも、二人の生きた証が受け継がれていることが心からうれしい。
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