日本における手洗事情について一考

11月23日、祝日の朝から衝撃的なニュースが・・・

詳しい内容はニュースを参照いただくとして、題名から残念になる人も多くなったのではないだろうか。
確かに公共の場所をこれまで善意で提供し続けてきたお寺としても、参詣者に今後お手洗いを提供できなくなることは無念だろうし、それによってトイレを使えなくなるハイカーにとっても損しかない、結局誰もが損をする結果になってしまったことは第三者目線から見ても残念だ。
いろいろこのニュースから感じたので以下にまとめていきたい。

トイレの使い方&そもそも公共の考え

そもそもトイレはどう使おうか自由だという人と綺麗に使うべきという立場に往々にして分かれるだろうが、かといってトイレをあえて汚く使ってやろうという輩はいないと思うし、そう信じたい。
とは言えもちろんトイレをすれば汚れることは間違いなく、男性トイレあれば小便器のほうが周辺に飛散し、結果汚くなってしまうこともあるからなんとも言えない。
そしてきっと中にはお腹の緩い人もいるだろうし、そのときに和式となるとそれこそ飛散の可能性もあるし、洋式であっても便座の裏側も汚れていることなんてザラだろう。
決して問題点はそこではない気がするし、もしかすると通常の使用だけならきっとこのトイレも撤去されることなんてなかったように思う。

無論記事にある通り、落書きや器物損壊などは論外で、そこについて論じる気はサラサラないし、そこはあとで公共の概念と一緒に考えたい。
ここではそれよりも使えば使うほどに汚くなってしまうトイレなのだが、持続可能でなくなってしまう要因というか、衛生面に限定すると浮かび上がってくる二つの問題の側面について少し目を向けてみようと思う。

まずなんと言ってもトイレの使用と掃除の関係だ。
使えば使うほど汚くなるし、特に男性小便器、足元に小便が飛散していると、自然と便器と身体の距離が離れ、そして足元の小便の残液がどんどん拡大してくし、匂いも強くなってしまうから、定期的に水で流さざるを得ないし、そうなるとハイカーが多いということはただでさえ土足で汚れがちな床がドロドロになってしまうだろう。
大便器も大体何人も使えば便器にこびりついてくるし、便座の裏側も汚くなる。
自分の家のトイレですら掃除は億劫だというひとも少なくないだろうし、そこで、「じゃあハイカー自身もボランティアでやればよかったじゃないか」という意見は、そこにどれだけの心理的ハードルがあるのかを考えたとき、実行に移すのはかなり難しいことと思う。
むしろ「そういうあなたこそ、公共のトイレを自分で掃除したことあるんですか」と聞いてみたいぐらいだ。

またトイレを借りるときの意識もどうだろうか。
きっと「トイレぐらい貸してくれよ」という考えが当たり前だろうし、むしろトイレがなければ「なんでトイレがないんだ」とすら思う人もいるかも知れない。
そしてトイレを使うとき、「自分ひとりぐらい」という考え方が何十人、何百人となったとき、どうなるだろう。

その一人ひとりの選択の積み重ねは、そこの寺社の住職であったり、その家族、もしくは熱心な檀家さんが毎回大変な思いをして掃除を担うことになること、これが現実的だ。

そして、もう一つはよく公衆トイレであれば気になること、まず1つは論外だが落書き、そしてあとは故意を問わずにポイ捨てだ。
小便器の上部とか、その上のカバンの置くようなスペースとか、大便個室の足元の紙袋、スーパーの袋に入ったごみなど、イメージできる人も多いんじゃないのか。
無論僕だって飲みかけのコーヒーを用を足して置きっ放ししてしまったことはあるし、思い出すたびに心が締め付けられる気分になる。
中にはタバコの吸殻もポイ捨てもあるし、きっとそれを掃除する人は、怒りに似た感情を抱くだろうし、悲しみという残念気持ちになるだろうと想像できる。

上記二つの問題の根本として考えたいのが、もしあなたの家だったら同じことをしますか?ということだと思う。
トイレで煙草はもしかするととある家では当たり前なんだろうけど、だからって灰とか吸い殻を床にそのままにする人はいないだろうし、トイレの落書なんて子供がやったらきっとママさんがカンカンになるだろう。
そして少しでもトイレを汚してしまったという意識があるなら、どこまで放置するのか、きっとなるべく清潔に保っておきたいという人が多いと思うのだが、それがなぜか公共のトイレだと汚く使ってオッケーとなってしまうのが、そもそも論じゃないだろうか。
結局誰も何も言わないからなのか、誰かがやってくれると思っているだけなのか、トイレ掃除を勝手にしてもよいのか判断できないという考え等色々あるんだろうけど、きっとトイレに限らず、路上の喫煙所、公園のベンチや遊具もそうだし、無料の公共の場所って私的空間よりも乱雑で無秩序なことが多いことも考えると、公と私の分け方から発生していると考えれば、説明が簡単にできる気がする。

善意とその恩恵を貪る自覚なき悪意

公共の場所は決して何でも許される訳では無い、頭ではおそらく多くの人がわかっているはず、それでもそうならないのはなぜだろうか。
その公共の問題を考えたとき、やはり大きいのは責任という問題である。
私的空間ならば、自分がやらなければ他に誰もしないから嫌でもやる。
でもじゃあ、みんなが使うのに、なんで私だけがという意識になるのも無理はない。

無論、意外と侮れないのが消耗品の負担でもある。水道、手洗い石けん液、トイレットペーパー、掃除用洗剤に掃除道具の保管と補充なども含め、備品の負担、そして誰もやりたがらない掃除という仕事が無償でなされなければならない。
無論公共トイレの中には市や区から掃除や維持業務を引き受けている業者もいるだろうからそうでないケースも有る。
コンビニでトイレを借りるときも商品を買うことはあってもトイレの使用料は直接払っているわけではない。

きっと特に私有地にあるようなといれというのは最初は善意からスタートしてるし、それがわかっていたからよく年配の方が掃除をされている姿を見ると、誰かがやるんじゃなくて、自分がやるという意識が強いんだろうなあと感じる。
そして中にはハイカーの中にも自分たちで掃除を使用する人たちもいたのではないかと思う。
かと言って、じゃあ使いやすいように備品があったりするかどうかは別問題だ。
もしなければしない、という選択になってしまうわけだが、その手間隙を引き受けるのは誰なのか、トイレの設置者だ。
むしろ我々はトイレを使うというメリットを享受する一方で、トイレを提供する側に歪なほどの負担が押し付けられているのが現状なのだ。
提供する側にとっては、一人ひとりの顔なんて見えないし、落書き、ポイ捨て、器物損壊をする人が圧倒的少数であるとはわかっていても、かれらからすると、大多数からの悪意なき責任の押しつけを甘んじるにはあまりにも道理が通らないと感じているはずだ。

とかく現代の日本社会ではトイレは基本タダが当たり前として受け入れられているし、かく言う僕自身それを享受している一人でしかないのだが、結果として限られた人たちにしわ寄せがいっていることを考えると、じゃあどうすれば持続可能なトイレ事情を維持できるのかを社会的に意識として持っておく必要はあるんじゃないか。

海外の事例と今後の展望

「じゃあトイレの使用料を取れっていうのか」
という声が聞こえてくるかもしれない。
有料・無料はさておき、敢えてもう一度投げかけたい。
「トイレはタダで本当に良いんですか?」
「自分が汚したものを誰かに押し付けてもいいんですか?」

自分たちのそうした小さな意識が誰か一人にとっては、悪意とは言わずとも無責任な押しつけになっていることを理解したなら、きっと取るべき行動は変わるはずだ。
自発的な掃除でなくとも、まずはメリットを享受していることへの謝意を示すこと、それは決して忘れてはいけないだろう。
トイレは綺麗でタダは決して当たり前でない。

欧米では下手をすればレストランやカフェですらトイレの使用は有料ですらありえる。
無論大した金額ではないし、一度に100円や50円にも満たないことだってある。
とはいえ便器に便座もないことがあるし、綺麗なトイレなんてそもそも日本レベルなんてありえない。
お金を取ってすらできるだけマシとするのなら、日本も何ならやってしまえばいいと思う。

有料トイレにして質もグンとあげてしまえばいいじゃないか。
無料のトイレにウォシュレットや温かい便座を求めるな。
最低限掃除がなされていたら良い。

乱暴かもしれないが、トイレというメリットを享受するにあたって、本当に今のシステムが今後も持続可能なのかは疑問でしかない。
要求のレベルは高く、それでいて価値提供は低めに、そこかしこに見られる日本のサービス業の縮図そのものではないだろうか。

無論、公衆トイレを設置していることの公益性、社会的貢献度は計り知れない。
でれば、設置者にとっても有益である必要性がますます高まるだろう。
どこでもいつでもトイレを安心してできる日本社会であることを切にねがいつつ。

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