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わたしとディズニーランド

今日ディズニーランドに行きました。このコロナ禍で、ファンでさえチケットを手に入れるのが大変な、ディズニーランドの8時からのチケットが1枚余ったというので、おこぼれをもらい、バイト先の人たちと三人で。

ただ正直、わたしはディズニーランドが苦手なのです。

初めてのディズニー

初めてディズニーランドに行ったのは、小学4年生だったと思う。わたしは名古屋に住んでいた。それまでディズニーランドという存在はなんとなく知ってはいたが、実際に自分が遊びに行くような場所とは思っていなかったと思う。朝のディズニーの番組でランドの様子が流れていて、「そういう場所があるんだな」ということはわかっていたが、自分の生活と地続きという感覚がなかった。

しかし、周りの子がだんだんと、「ディズニーランドに行った」という話をし出す年頃になる。みんなが「楽しかった!」「また行きたい!」と言っているのを聞き、わたしも「ディズニーランド、行きたい!」と思った。完全に、「みんな持ってるから、うちも買って!」だ。

わたしの両親はディズニーのアニメを特に見せたりしなかったので、もちろん家にビデオはないし、例の朝のテレ東のディズニーの番組でしか認識していなかった。ミッキーミニー、プーさん、スティッチ、シンデレラ…キャラは知っていても、ストーリーなどはあまり知らなかった(スティッチのアニメをよくやっていたので、スティッチがいちばん詳しかったかも)だから、そんなにディズニーに興味がなかったはずだった。

そもそもディズニーアニメをあまり好まなかったのかもしれない。わたしはポケモンやサンリオやサンエックスなど、日本のかわいいキャラクターものが好きで、外国のカラフルなアニメーションが怖かった。映画の教材ビデオでピンクのカバの着ぐるみが英語で喋って踊るのを見て慌てて部屋を逃げ出したり(知らない言語を喋るデケー存在しない色のカバ、怖くないですか?)、NHKで流れていたセサミストリートのビッグバード(黄色で目がデカくて口の形も不気味)が怖かった。もちろんミッキーミニーやプーさんはなんとなくかわいいとは思っていたが、大好き!というほどではなかった。だから、わたしはディズニーランドに行きたかったのではなく、みんなが行きたいと行きたいと言う、有名で楽しいらしい場所に行きたかっただけだと思う。

お母さんにお願いしたら、わりとすんなり行ってみようという話になったと思う。両親は若い頃東京に住んでいて、その頃行ったのだと思う。「たしかに久しぶりに行ってみてもいいかもね」という話になった気がする。わたしの要望は受け入れられ、ディズニーランドとシーの両方に、一泊二日で行くこととなったのだ。両親と、わたしの一個上の兄、わたし、わたしの四個下の弟。五人で初めての遠出の旅行だった。わたしはその頃東京の遠さとか、ホテルに泊まって二日も遊園地で遊ぶなんていう特別感や贅沢感を、今の感覚よりもあまり理解してなかったと思う。

弟はまだ6歳とかで、小さくてかわいかったのを覚えている。この頃の弟は、その後の「激ヤンチャ期」がくる前で、そのときのイベントのグッズだったスティッチのカラフルな帽子を被っていた。弟もわたしもスティッチのアニメを見ていたので、馴染み深くてうれしかった。

両親に連れられて、わたしたちは乗り物に乗った。両親も十何年ぶりのディズニーランド、初めてのディズニーシー。二人もどう周ればいいか全然わかんなかっただろうに、わたしたちを連れて行ってくれた。わたしは、楽しかった。ここが憧れのディズニーランドかあ!と思った。よく知らんキャラの着ぐるみがいるのも新鮮で楽しかった。広い敷地、カラフルな建物、大仰な演出のアトラクション。別にディズニーのキャラのことなんて知らなくても、そのときはミッキーだ!プーさんだ!で楽しかったと思う。それまで乗ったことのない大きなジェットコースターに乗せられたのは怖かったが、いい思い出になった。ディズニーシーで買ってもらったアイスについてるプラスチックのケースを、わたしはまだ持っている。


二回目のディズニーランド

小学6年生のとき、子ども会の卒業旅行でディズニーランドに行った。仲良しの二人がいっしょだった。そこで初めて、「キャラクターにメモとペン渡すとサインしてくれるんだよ!」と教えてもらった。

「何それ!すごっ!」

わたしはペンととっておきのかわいいメモを持って行って、みんながしてもらうように、会うキャラ会うキャラにサインをもらった。なんのキャラなのか全然知らないキャラにももらった。友達たちはわたしよりディズニーのアニメを見たことがあるし、ランドに何回か来たことのある子もいた。みんな楽しそうに乗り物にのったりパレードを見たりしていた。友達といっしょなので、楽しかったとは思う。でもそのときなんとなく思ったんだと思う。「わたし、ディズニーのこと、好きか?」

そもそも全然知らんし、なんか外国のキャラって癒されるかわいさを感じないし、なんかたまにグロいし、乗り物にのって、動く人形見て。わたしが他の子のようにキャッキャと楽しそうにしていないことに、わたし自身が気づいたのである。


三回目

三回目は、中学の修学旅行だ。田舎の中学の修学旅行は、東京なのである(富士山の麓にも行く)。

二泊三日の二日目は東京に行き、昼間は各班で事前に決めた観光をし、夕方頃からディズニーランドに集まり初め、最後はランドで点呼を取り、近くのホテルに泊まるのだ。

東京観光を終え、みんなお楽しみのディズニーランドへ行く。アトラクションに少し乗り、日が落ち始めたときから、わたしは少し憂鬱になって来ていた。みんながきゃー!と楽しそうにはしゃぐのに、全然ついていけてなかった。わたしは隣の友達たちとは同じテンションになれていなかった。まったくつまらないわけでもないけど、何がそこまで楽しいか、理由もわからず、淡々とわたしにとってはそんなに楽しくはなかった。

夜になり、エレクトリカルパレードが始まった。大きな音楽と、キラキラと光る車体、笑顔で手を振るキャラクターたち。それを眺めるたくさんの人。それを見ていたとき、ものすごく胸がざわついた。「あっ、帰りたい」と思った。なぜだかわからないけど、その光景にものすごく胸がざわざわし、陽気な音楽がさらにわたしの頭にまでもやをかけて、息苦しくなったのだ。

早く現実の世界に帰りたい、街を見たい。人が生活している場所に行きたい、と思った。夢よりも現実に戻りたい、と思った。魔法をかけないでくれ、と思った。なぜなのかは、よくわからない。

この日を経て、わたしはディズニーランドはもう行きたいとは思わないし、そもそもディズニーとか外国のキャラなんて全然好きじゃないわ、という立場を明確にした。誰にだ?わたしにとってでしかないが……。だからわたしはディズニー全般から遠ざかった。ディズニーが好きなんて人は明るくポップなものが好きな人たちで、わたしみたいな暗い本や地味なものを好む人間には向いてないのだと思った。


大学生になってから

大学生になってから、演劇サークルの人たちに誘われて、まあみんなで行くなら楽しいか、と思ってランドに行くことになった。なんだかんだ、4回目のランドだ。どちらかというと、「まあまあ行ったことある人」という分類に入るのではなかろうか。しかし、そこでもわたしはやはり「特にパレードが苦手」という認識を強めて終わった。

その後、裏方として参加したサークルの演劇公演で、OP曲としてディズニーランドのパレードの曲が使われることとなった。「これディズニーの曲だよ」と言われる前になんとなくわかった。それを聞いていると、あの胸騒ぎがするのだ。あの元気で明るい世界の曲だ。OPだったので、わりと長い時間しっかりとかかる曲だった。わたしはディズニーランドだけでなく、ディズニーのパレードだけでなく、ディズニーのパレード曲を聞くだけで気持ち悪くなるような根暗な人間なのか、と愕然とした。だが容赦なく練習のたび曲は流れ、わたしはなんとも言えない気持ち悪さ・息苦しさを感じながら、公演を終えた(さすがに途中からだんだんと慣れたが)。


この苦手感はなぜなんだろう

中学三年生のときから、わたしはなぜこんなふうに感じてしまうのか、他の子は楽しそうなのに、なぜ自分はこんなに苦手なのだろうか?と考えている。

明確な結論はないが、いくつかの推論はある。

①まずは、わたしがめちゃくちゃ根暗だから。

まずはというが、最終的には全てこれに収束しそうではある。わたしがめちゃくちゃ根暗なせいで、この「ハッピー!楽しい!かわいい!夢の国!」というコンセプトがそもそもダメなんじゃないだろうか、ということである。「ここに来たら誰でも夢の世界の住人!」んなわけあるかい、である。楽しい音楽も、全て嘘に聞こえてくる。この世界が偽物だということが、現実の世界の闇を色濃くさせる。だからこそ、いつもいる・安心だと思われる現実に戻りたくなる。過剰なハッピーが、わたしの心を揺さぶっているのだと思う。

②とにかく考えすぎ

とにかく考えすぎだ。今日もアトラクションに乗って「うーん、This is America」という感想を抱いていたし。ジェットコースターのようなもの以外は、ほとんどが「動く人形館」ではないか?その演出の派手さ・単純さが、わたしのイメージのアメリカそのものだ。それに、ことあるごとにインディアンだ。カリブだ。「いや、アメリカ人よ、そのインディアンやカリブにもともといた人たちを迫害して自分たちの土地にしたのはどこのどいつなんだい?そしてそれをこんな博物館×エンタメみたいなことにしていいのかい?今も受け継がれる負の遺産ではないのかい?」とか考えてしまうのだ。

「そういえば、アメリカ人はヨーロッパの人たちに対して、『自分たちの国には歴史がない』というのがコンプレックスだ、と聞いたことがあるな。ヨーロッパ人は歴史的なものが好きだから。だから、アメリカは自分たちの歴史としてインディアンを愛してると思ってるのだろうか?まあ日本も武士とか好きだしなあ。あれだって今の価値観でいったら野蛮な文化と思えることだってしてるわけだし。そう思うと別に責めることでもないのか?いやそれにしてもここにもインディアン!!」

…みたいに考えてると、「この資本主義社会……」という気持ちが大きくなって、アトラクションや街並みがアメリカや資本主義にしか見えなくなってくるのである。こりゃどうかしてんな、と今書きながら冷静に思ってきた。でもそうなのだ。ディズニーランドはアメリカの資本主義で出来上がっていて、それがわたしにとってとっても露骨なのだ!普段の困窮した生活よりも、よっぽど露骨な資本主義なのだ!資本主義が悪というわけでなく、なんか、その露骨さが奇妙で気持ち悪くなるような気がする。


③あたしが主役だと思ってるから

これは根暗系とは一線を画す論だ。

ディズニーの世界は、そうとう作り込まれ、完成されている。隙なく夢の国を演出してくれる。しかし、それゆえに、わたしのイマジネーションが入る隙がないのだ。わたしが考えたおもしろ話おもしろ踊りが介入する場所はなく、またわたしの愛するドロドロとした人間関係や感情はなく、この場の主役は「ディズニー」という世界なのである。そしてそこに訪れたわたしは大勢のお客さんの中の一人で、わたしは決して主役ではないのだ。わたしは大きな音楽や光に飲み込まれ、ジェットコースターのスピードによってシュンッと消える。ディズニーは、消費のされ方まで完成尽くされている。わたしたちはディズニーの世界に入ったが最後、画一的なお客様にされてしまう、ような気がしてしまうのだ。

そうなると、「わたしはどこへ?わたしの普段愛したものものはどこへ?」という気持ちがだんだんと募り、暗闇の中キラキラと照らされ優雅に乗り物に乗ったキャラたちが、「わたしたちが主役です!」と手を振ったときにその思いはピークを迎え、パレードの派手な音楽がわたしの存在をかき消していくように感じる、のではないだろうか?

ディズニーなんかより、わたしやわたしが感じることのほうが、よっぽどおもしろいと思っているのは、傲慢で自尊心が過ぎるのではないだろうか?そんな性格でいいのか、自分。


ディズニーってすごいよね

ディズニーやディズニーランドが好きな人たちはたくさんいる。めちゃくちゃたくさんいる。わたしと友達にならないようなタイプの人たちはもちろん好きだし、わたしの数少ない友達もたぶん全員好きだ。わたしがマイノリティなのはわかり切っているし、みんなが好きなものを否定したくはないんだ!ほんとはみんなと同じように全力で楽しみたいんだ!しかし毎回そんなにうまくはいかないのだ!関心するところや、綺麗だな〜と素直に思うところはありつつも、やはりニコニコしながらどこか(ああ早く帰りたい)という気持ちが消えないのだ。

みんな大好きディズニーランドはすごい。こんなAmericaなものを、世界各国に作ってしまうなんてすごい。ホスピタリティなどもすごい。うん。もうしばらく行かなくていいかな。

同じノートパソコン、8年使ってます!