記憶が美化される
noteの投稿が久々になってしまった。下書きはいっぱいあるが、書いているうちにとっちらかってしまいまとめられず、8つも書き途中になっている。
最近就活の準備として、自己分析というか、自分の過去を振り返ってみた。なんだか、あの当時は頑張っていた気がするのに、辛かったはずなのに過去の経験はどこか美化されているのか、今思えば大したことじゃない気がしてしまう。
それはたった1年前でもだ。高校の時も。大学に入ってからも。もちろん浪人時期も。辛くてもがきながら苦しい毎日を送っていたはずなのに。その毎日は今では『大変だったけどいい経験だった』という1文に集約され、ある意味美化されている。
あのころの辛い記憶は今や、数年前のできごとでしかない。
エントリーシートに自分の人生の挫折経験や辛かったこと・頑張ったことを問うものがよくあった。
題材は思い浮かぶ。浪人の頃にしようとか、去年の辛かった学祭の頃にしようとか。でも書き始めると何故か薄くなってしまう。そんな薄い経験ではなかったはずなのに。大したことじゃない気がしてしまう。こんな浅い経験を書くなんてと後ろめたくなる。きっとこの話を当時の自分が聞いたら、怒ってしまうかもしれない。こんなに辛い日々をなぜ軽んじるのか、と。
でもどうしても、何故かあの時の気持ちは思い出せなくて、ある意味美化された記憶しか残っていない虚しさが、さらに私を虚しくさせる。
最近ですら、そう思う瞬間がある。頑張っている気がするし、頑張っているはずだけど。自分的には頑張っていない気がして。
誰かの応援が、頑張れの言葉が、分不相応な気がして。なんだか、後ろめたくなる。まだ、余力が残っているからなのか。周りに比べて苦労していない気がする。でも自分で言うのもなんだが、人よりキャパシティがある方で。一般的に見たら色々やっているはずなのに。
何故だか、苦労していることが素晴らしいことな気がして。自分のキャパ内、なんなら少し余裕あるくらいが本来良い事なはずなのに。キャパがギリギリだったり、なんなら少しオーバー気味だったりした方が良く感じてしまう。
誰かに大変だねって同情されたい人間なのかも。ダサいなあ。今頑張っているはずな状態を、過去の頑張っていたはずの自分を、自分がある意味美化して無下にしていることにもなんだか悲しい。
思い出を美化するって言うけれど、苦しい思い出の度合いだけを美化しすぎると虚しくなるって、初めて知った。
でも、鮮明に思い出すのだっていやだ。だからこそ、美化されているのかもしれない。そう思うことにした。
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