自分を許すことと、他人を許すことは繋がっている。

すごく面白い心理的な体験をしたので書き留めておきます。個人差はあると思いますが、ある種の傷ついた方々にとっては少しだけ参考になるかもしれません。

内容を一言で言うとタイトル通りで、"「自分の外の死ぬほど嫌いな何か・誰か」というのは、「自分の中の死ぬほど嫌いな部分や傷」と繋がっている"ような気がしたということ。


ここ数日間、私はこのレベルの絶望感というか退屈感は久々だなと思うくらいの精神的な停滞状態に陥っていました。何もやる気がしないし、興味が持てなくなった。やりたいことは色々あったはずなのに。日常生活すらひどくおっくうで仕方なかった。

しかも、原因がよくわからない。直近で嫌なことがあったわけでもない。取り立てて体調を崩しているわけでもない。悪いものを食べたわけでもない。

そういう深い絶望感・停滞状態の中にいると、人生で一番つらかったころの時期を思い出してきました。それもただ思い浮かぶのではなく、リアルな感覚を伴っていました。久々に感じたような程度の重苦しい気持ち。吐き気すらあった。


ところで私は、今と同じような重苦しい状態のときに受けた、昔の「ひどい仕打ち」が、今でもまだ心の傷になっていた。

しかし、自分の困難な状況を自分に出来る限りのやり方で言葉にして、対策を考えて前向きに進んでいこうとしている人間にすることじゃないなあれは、「アホらしい」なと、今はリアルな感覚で感じられた。昔は深い霧の中にいて混迷していたことが、今思い出して改めて、腑に落ちたと言ってもいい。昔の体験を「やり直した」ような感じ。


そしてその「アホらしい」という感覚を得られてから、誰に何を言われようとも関係ないなとさらに強く思えるようになった。今までは、「自分が自分でありたい」という気持ちはかなり強かったけど、どこかそれを通しきれない自分もいた。敵対的な誰かの自分に対する「批評」に対して、「反論」したい気持ちに駆り立てられることもあった。

しかし今は、そんな「批評」や口先だけの言葉には、自分や現実を動かす力はないということがリアルな感覚として得られたという感じ。もはや「反論」は必要ない。「自分が自分であれればそれでいい」。間違っていようが何と言われようが勝手な解釈をされようが別にどうでもいい。「アホらしい」というよりも、「どうでもいい」という言葉のほうが適切かもしれない。否定する必要もなく、気にならなくなった。そもそもこれは「自分が自分になるための戦い」だ。

言いたいことがあるならご自由にどうぞ、あなたがそれを繰り返している限り、あなたは絶対に幸せになれないよ。そもそも人生や自分に強い後悔があるから、そういう偉そうな・馬鹿げた・攻撃的な態度になるんだね?と、より体得した。頭ではずっと前から分かっていたことが、身体でも理解できたという感じ。脳内物質の分泌すら切り替わったような。我慢しなくてもなにも沸いてこなくなった。


悲しい話の登場人物で、かわいそうな人間は一人だけじゃないんだ。加害者は同時に別の場面では、被害者なんだ。暴力的な発言や行為というのは、「私を助けて!」という悲鳴のようなものだったんだ。

ストレスや悪意はどんなに巧妙に隠蔽したつもりでも、かならず表に出る。かならず態度に出るし、自分を認められないと他人を認められなくなる。自分を評価できない人間に、他人を評価することは出来ない。嘘や偽りはやがてばれる。そして罰を受ける。小手先の嘘や小細工じゃなく、自分の人格や生き方そのものが問われている。

その問いには、一切のごまかしが通用しない。人間界を越えた、天上の光で全てが白日の下にさらされているようなものだ。短い文章や発言であっても、そこには自分が気づかないようなサインが埋め込まれている。漠然としているがなんか嫌な感じがするなこの人、と周囲に発信することになる。


要はもうみんな、壊れてたんだね。あのとき。自分だけじゃなく。


内面的な作業として、過程として、ここまで来たら「重い絶望感」は消えてなくなっていた。それはこの内容を伝えるために来たのかもしれないと思った。


自分は別に偉大な人間とかじゃないので、まだまだぶれたりもするだろうし、怒ったり泣いたりするだろうし、問題は山積みなのは変わらない。だけど「まだもう少しやれそうだな」と思えた話。景色は全く変わらないはずなのに、世界が少しだけ輝いて見えた。

それが2017年の10月の末に起きた出来事。日記に書いておきたいと思った。わかりやすい話じゃないけど、とりあえずは率直に書き留めておく。別の形で改めて書くかもしれない。

またここに立ち返らないといけない時がきっと来るだろうから。人生はきっとそんなに甘くないだろうから、忘れないために記そう。

頂いたサポートは無駄遣いします。 修学旅行先で買って、以後ほこりをかぶっている木刀くらいのものに使いたい。でもその木刀を3年くらい経ってから夜の公園で素振りしてみたい。そしたらまた詩が生まれそうだ。 ツイッター → https://twitter.com/sdw_konoha