自分の中での、自己開示度の段階と生きやすさのイメージ

「自己開示」(どれだけ自分をオープンにするか)が時代の課題となっているような気がします。つまり、ありのままに生きるのが難しくて、みんな試行錯誤しているってこと。

そしてその自己開示には段階があるように私には見えています。自分の心の中で、こんなモデルを作って整理して受け止めています。

.ただ子供らしく振る舞う。周りの人間をあまり気にしない。

.社会規範や常識を重んじる。自分を表に出さなくなる。

.周りの人間の状況を理解した上で、自分として自分らしく振る舞う。常識よりもケースバイケースで臨機応変に。

こんなイメージ。自分自身が2と3の間にいる(と自分で思っている)ので、本当は段階4や5があるのかもしれない。まだ見えてないだけで。


なんでこんなモデルを持ち出したかというと、いまの世の中にある「常識・規範」を持ち出して攻撃する(匿名的な)人の状況が説明しやすくなるから。

この試み自体が暴力性をはらんでいて好きじゃない人もいるかもしれないけど、これはただの日記で、リアルの他人に強引に押し付けに行ってるわけでもなければ、事実・真実として定着させようとしているわけでもないので、ただの一人の弱い人間の日々を表現した記録として受け止めてもらいたいと思ってます。


話を戻すと、現在の日本で頻発しているのは、「2の段階(常識を重んじる)にある人が、3の段階(自分らしく)にある人やそうなろうとしている人をうらやんで、1の段階(子供らしく)にあると決めつけて攻撃している」ということ。

(ああでも、こういう言い方になる時点で、1の段階にある人に対する侮辱的なニュアンスがあるのか。推敲してて初めてはっきりと気づいた。そういうつもりでもないんだけどな。微妙なニュアンスをどう表現すればいいんだろう。)

2の段階で停滞している人には、1の段階と3の段階の違いがよく区別できない。本当は螺旋階段を上っているのに、平面的にしか見られない(円運動のように、不毛に見えている)とその「高さ」の度合いを感じ取れない。


それはちょうど季節が移ろうようなもので、2の段階にある人は冬の時代だ。重苦しくて実りも少ない。さらに季節の比喩を使うと、こんなイメージ。

」:1(子供らしく)→「」:2(常識を重んじる)→「」:3(自分らしく)

ちなみにこの季節の比喩のアイデアは某ゲームから拝借しているのだけど、されはさておき、1の段階にある人と、3の段階にある人は晴れやかな気持ちで日々を生きることができる。

でも、2の段階にある人はそうじゃない。重苦しくて不安。でも多くの人が通る道で(向こうからしかけてこないなら、自分としては別に攻撃したり侮辱的なニュアンスをもたせたいと思ってない)、いまの日本という環境は「2→3」の移行が特別に難しくなっているように見える。

環境や場所によっては、「1」の子どもらしく振る舞うということが難しかったりもしそう。それはそれで後まで尾を引きそう。


でもさ、強烈なエネルギーと才能をもった歴史上の天才は、このモデルでいうとずっと「1」(子供らしく)の段階にいたように見えるけど、それで何かが欠けているというわけではないし、こういう観点で切り取ることもできるというだけで、そこに侮辱的なニュアンスをなるべく込めたくないという気持ちはある。現実の人間はもっと多面的で、情報量が多くて簡単にはとらえきれない。ちょっとした宇宙みたいなもの。かんたんにわかった気になっちゃ駄目だ。

でも、リアルな人間の心情としては、出来ることと出来ないことがある。実際に自分の中にあるものを隠しても仕方がないと思ってます。事なかれ主義じゃ何も変わらない。

そしてこんな風にして書いていると癒される。健康のために書いてるまである。

頂いたサポートは無駄遣いします。 修学旅行先で買って、以後ほこりをかぶっている木刀くらいのものに使いたい。でもその木刀を3年くらい経ってから夜の公園で素振りしてみたい。そしたらまた詩が生まれそうだ。 ツイッター → https://twitter.com/sdw_konoha