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Vol.26 時として劇伴(音楽)は雄弁に語る。

前回に引き続いて、映画『哀れなるものたち』(注1)のお話です。
(※極力ネタバレ回避して書きますが…回避しきれなかったらすみません!)

まずは、Jerskin Fendrixが手掛けた同作品の劇伴(音楽)から、本編後半の「ロンドン」のシーンをお聴き頂きましょう。

「ロンドン」※2分22秒の音声動画です。

さて、映画とかミュージカルでは、劇伴(音楽)やミュージカルナンバー(歌唱パート)にて、「一つのテーマやモチーフ」が「多少、形を変えて引用される」ことがありますが、映画『哀れなるものたち』も(割とシンプルな)モチーフ使いが印象的な作品でした。
端的に言えば「ロンドン(のテーマ、モチーフ)」が印象に残ったので、今回は、その視点で書き綴ってみようと思った次第です。

では今度は「ロンドン」より前の、劇中の中盤にて主人公のベラ・バクスターが旅先で「世の中の厳しい現実を知って打ちのめされるシーン」、「アレクサンドリア」の劇伴をお聴き頂きましょう。

「アレクサンドリア」※2分48秒の音声動画です。

先ほどの穏やかな「ロンドン」とは異なるショッキングな印象を受ける音楽なのですが、私からすると中盤の1分16秒辺りの音遣い(音運び)は、民族楽器らしき音で埋もれがちになりつつも、先ほど挙げた「ロンドン」に近いもの(つまり、のちに現れる「ロンドン」の予兆)を感じたのですが、いかがでしょうか?(…とか言って、私しか感じていなかったらどうしよう?(笑))。
…という訳で、もう一度「ロンドン」をお聴きください。

「ロンドン」※2分22秒の音声動画です。

ちなみに、この「ロンドン(のテーマ、もしくはモチーフ)は、「帰郷のテーマ」とも言えるもので、「帰郷した事で主人公が自覚する ” 内面的成長 ” 」を、「口ずさみやすいメロディーの形」を借りて(さらには、揺らぎのあるアコースティックなリード楽器の奏でにて)紡ぎだしています。
(ちなみに、1分46秒の辺りからは場面が変わるので、メロディーはそのままに使用楽器が変わっています。)
さて、物語の方は更なる ひと波乱を迎える訳ですが、ひと波乱が過ぎた後の場面で、「ロンドンのモチーフ」が今度は「ベラ、マックス & ゴッド」という形で戻ってきます。

「ベラ、マックス & ゴッド」※1分35秒の音声動画です。

主人公の ” ベラ ” と、 ” ゴッド(こと、ベラの創造主ともいえるゴドウィン) ” 、その助手の ” マックス ” 、この三人が織りなした心の旅路の結実。さらには、異形の存在として生きざるをえなかった一人の人間の終着を描く場面なのですが、ここでは先ほどの「ロンドン」以上にアコースティックの楽器がもたらす揺らぎが強調される事で、描かれている場面や、その内面に寄り添っている事が分かります。
そして物語は大団円を迎え、エンドクレジットに至る訳ですが、ここでも高らかに鳴り響くメロディーは「ロンドンのモチーフ」です。

「フィナーレ & エンドクレジット」※4分55秒の音声動画です。

映画本編は、終盤に「割とギョッとする悪趣味」が炸裂する!?のですが、そんなショックにかき消されることなく、『本作の持つ「自己の確立・解放」というメッセージが胸に響いた状態で客席を立つことができる』のは、『Jerskin Fendrixが手掛けた「ロンドンのモチーフ」による所が大きい』と思うのですが、いかがでしょうか?

…という邪推をまき散らしつつ!?、今週も締めの『吃音短歌(注2)』を…

いつの日か こわばる我が背 蹴飛ばして 止めた言葉を 野に放ちたい

【注釈】

注1)映画「哀れなるものたち」

「若き医師マックス・マッキャンドレスは、師であるゴドウィン・バクスターに招かれ、邸宅内で奇妙な行動をとり続ける若い女性ベラ・バクスターの観察を依頼される。やがて少しずつ、ベラに変化が起こり始めるのだが…」
映画監督ヨルゴス・ランティモスが手掛けた、アラスター・グレイによる同名小説の映画化作品。

注2)吃音短歌

筆者のハンディキャップでもある、吃音{きつおん}(注3)を題材にして詠んだ短歌。
この中では『「吃音」「どもり」の単語は使用しない』という自分ルールを適用中。

注3)吃音(きつおん)

かつては「吃り(どもり)」とも呼ばれた発話障害の一種。症状としては連発、伸発、難発があり、日本国内では人口の1%程度が吃音とのこと。


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