見出し画像

noteを始める理由

午後16時。茅場町、9階オフィス。昼過ぎからメールボックスは静かなまま。夏の思い出に浸っているかのように、社会はまだ動かない。

要するに暇である。月曜朝の問い合わせの量にお盆の終わりを勝手に感じていたが、クライアントの稼働のオンオフがテレビの電源の如くパチッと切り替わるわけもなく、ずるずると気怠い身体を引きずっているかのような生ぬるい忙しさ。そんなこんなで文章を書いて時間を潰す作戦。

noteを始める理由。自分の言語コンプレックスを切り口にと思い、意気揚々とタイピングを始めたが、わざわざ理由を書きつらねる意味が分からなくなり、辞める。

noteを始める理由。春先に図書館で偶然大学の後輩と遭遇し、お茶の時間を頂いたが、なんだかモゴモゴとした曖昧な言葉しか口から出てこなかった。後輩くんは、自分も冬のあいだ人と会っていなかったから分かると、宙にふわふわと浮いている私の言葉をかき集めてくれた。

また別の場面。少し他人に言い辛いことを伝えようとしている時、「くぼってあんまり本心から思ってないことを口にする時、はっきりと喋らなくなるよね」と言われた。

違う。自分は、何を伝えるか、何を伝えたいのか、どの言葉に置き換えるか、どういう立場から語るのか、その全てを曖昧にしたまま過ごしているだけで。これは自分の怠惰が所以しているわけなのだけど、そこに更に人見知りという性質も加わってしまうから、人との対面時に、思考内容を言語の型に当てはめて外界へ押し出すという所業が怖くなる瞬間が多々ある。多々ある、というのは実に控えめな表現で、ここ最近はそういった場面が日常として定着しつつある。何をどういう立場から語るのか。そこに覚悟が持てていない。

自分にとって言語化とは、クッキーの生地に、パスタ製造器具のような既製品の型を押し当て、ぐりぐりと生地を捻り出す作業。クッキーの生地に形は無いけど、型は現実的で実体を伴っている。必ずしも完璧には一致していない型のなかから、最も近い、最も誤解される恐れが少ないと思われる型を探し出し、無理矢理当てはめる。押し出す。それが自分にとって、思考を言語に置き換えて発話する作業。

「全ての思考は言語化できる。言語化できないのであれば、そもそも思考できていない。」大学時代、そんな感じのことを知人に言われた。

私はそうは思わない。言語というものは、人工的に、便宜的に、後から作られたものであり、思考や感情はもっとプリミティブなものだと思っている。私の世界では"根源的な領域"と"人工的な領域"とが分離しており、"人工的な領域"は"根源的な領域"のほんの上澄みでしかない。そして言語は"人工的な領域"に属する。思考は"根源的な領域"に属する。そういう感覚のなかで私は生きている。(形而上と形而下、がそういう意味なのだろうか。分からない。)

ただ実際のところ、言語というツール無しには成立し得ない水準の文明のなかで生活を送っており、根源的な思考を人工的なツールで変換しないことには社会が成立しないというのも分かっている。この変換作業を自分が怠っていることも自覚している。

noteを始める理由。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?