澁澤龍彦『快楽主義の哲学』
「人生には、目的なんかない」
「幸福は快楽ではない」
「幸福は、この世に存在しない」
「博愛主義は、うその思想である」
「健全な精神こそ、不健全である」
「乱交の理想郷」
「酔生夢死の快楽」
「ユーモアは快楽の源泉」
「精神の貴族たること」
「本能のおもむくままに行動すること」
「レジャーの幻想に目をくらまされないこと」
幾つか本書の好きな目次の文言を並べてみた。
さっきの(読んでいる時の)私は爆笑したが、お利口な四角四面のモラリスト(ex.小学生くらいの頃の私)なら泡を拭いて卒倒するような目眩く言葉たち……。
自己矛盾を見ている。
小学生の頃の私は死んだわけではないのだから。
脳内には、あの頃のPTA受け間違いなし・真面目で努力家な性格が変わらず居座っているのに、とんでもなく快楽主義的な性格も間違いなくかなり図々しく同居している。
誰か1人を愛し通すことは素晴らしいことだと感じるのと同時に、家庭なんて持たずして守りとおす私の自由がまず第一であるとも思う。どちらも私だ。
その矛盾は当然起こりうることが本書を読んで分かった。これは禁欲主義と快楽主義の両派の巨頭、ゼノンとエピクロスが大いに意気投合したのと同じことなのだ。もっと極端になりたい。両極端は背中合わせだ。
やさしい哲学という曲が好きだ。
今日、資本主義社会の生み出したさまざまな幸せが喧伝され、ある程度のお金さえあればエンターテイメントで余暇をみっちり埋められる。
でもそのエンターテイメントに使う時間が、辛い労働をなんとか乗り切るための資本側からの無理やり掻き立てられた消費の欲望なのかも知れないと、気づかれる。
根無草としての自由を得てこそ、目の前の与えられた幸福っぽいものを断ち切り、エデンを見られるのだ。
(これを表現者としての立場で歌う椎名林檎は、本当に信用に値するなと思う。)
社会は会社で成り立っている。
その会社を成り立たせることが私たちの本当の喜びかは疑わしい。“本当に欲しいもの”は、資本主義に基づいた会社の利益の最大化にとったら不都合なものかも知れないからだ。
与えられるレジャーの目くらましにやられて、手近な幸福に甘んじて、本当に欲しかった喜びを取り逃がしていなかっただろうか、と、この曲を聴くたびにはっとするのだ。それを澁澤は見事に言葉にしてくれた。
このほかにも、サディズムに名前を分けたサドの考え方は、現代の道徳家よりも実はよっぽど実現化に近い(別に全然無理なんだけど)平等主義だったりする、という話も面白かった。
ディオゲネス、李白、アレティノ、ガザノヴァ、ジャリ、ワイルド、コクトー……。一匹狼の徹底的な快楽主義者はクールだ。
本物の快楽のためには孤独なんて厭わない。
人々を規格化して平坦に均す大衆民主主義から逸脱し、今この瞬間を閃光のように生き尽くすのだ。
快楽主義とはストイックさである。
私は、彼らのように何もかもを捨てられない。人からの目線はどうしても気になる。周りから見て幸せそうであることも守りたくなってしまう。せせこましい保守的な幸せにしがみついている。私のこと好きでいてくれる友達に気狂いだと思われて嫌われたら辛い。レジャー的なものも、嫌いじゃない。“苦痛のなさ”に甘えている。
危険書。まさに劇薬。
別にこの本を丸々自分のものにするつもりはないけど、徹底的な快楽主義というストイックさに賭ける勇気もないけど、最近ヌルいな自分と思い始めた日に、ショック療法のために再読しよう。
こういう禁書・危険書だけ集めた本屋さん開きたいな
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