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はじめまして 一本傷の狼と申します



序章


突然ですが、私の人生は2009年8月17日にいったん終了しました
そして第2の人生がはじまりました。

いきなり何を言い出すかと思われた方、確実にいらっしゃると思います。
何を隠そうその日の夜に私は交通事故に遭って頭を強く打ち、意識不明の重体となって病院に運ばれた経験があったので。

健常だった頃の私は演劇を学ぶために専門学校的なところに通いながらアルバイトをしていた、成年を迎えて間もない青二才でした。
運命の日は何てことはない、いつもどおりの一日を終えて帰路に就いた夜のこと、ある交差点で青信号になって自転車で渡ろうとしたところをトラックに轢かれて、目が覚めたときには病院の個室で横たわっていました。いきなり話が飛びましたが、当時の記憶はトラックに轢かれた後はまったくないのです。私の人生を180度どころか540度ほどひっくり返したトラックのドライブレコーダーには生々しいショッキング映像が残されていて、自転車ごと派手に吹っ飛んだ私の姿があったそうなのですが、結局確認することは叶わずじまいです。

病院の個室で目覚めた私は、唯一あった1枚の小さな窓の向こうを覗いて大層びっくりしました。何故ならつい3~4カ月ほど前に中退して出ていったはずの大学がにっこりと、

「おかえり♡」

と出迎えてきたような錯覚に陥ったからです。
「どういうこと??」と頭上に疑問符を何個か浮かべていたら、たまたま私の容態を看に来た女性の看護師さんが来られて、「まぁまぁ狼さん、気がついたんですね!」とうれしそうに声をかけてきました。そのタイミングで、「どうした大学があそこに!?」と慌てふためいてもよかったのかもしれませんが、そのときに衝いて出た言葉は、

「私は事故に遭ったんですね?」

という冷静な問いかけでした。このことは、2023年10月9日現在でもはっきりと憶えています。
軽度の床ずれ、筋肉量と体力が落ちていたこと、左後頭部にタンコブがあったこと。当時気づいたのはその3点くらいで、あとは大したことがなかったと思っていた私は退院の日を迎えるまで暇をもてあまし、病院内のコンビニで適当な菓子類と漫画雑誌を購入して、個室をあたかも自室のように占拠して過ごしていました。左腕は点滴を打っていたので少々動かしづらかったですが、それ以外は何ともなくシュークリームを片手に週刊少年ジャンプやら名探偵コナンの65巻を舐めるように読みあさりながら退院の時を心待ちにしていました。

轢かれはしましたが逃げられることはなかったあの日の夜からわずか10日間で退院し、「ようやっと自宅に帰れる」と戻ったのも束の間地獄を見ました。何せ起き上がるだけで視界がぐるぐると回って吐き気を催し、吐きたくても体力はないし筋肉も衰えているものだからトイレに向かうだけで満身創痍になり、四つん這いになってでも目的地にたどり着いたのはおそらく2才児以来だったと思われます(自我すら芽生えてないだろうから2才児だったかも怪しい…)いずれにせよ1カ月近くはこんな感じでした。

さいわい1階に母方の祖母が暮らしていた痕跡(廊下をはじめとした至るところに手すり)があったので時間と体力が許すかぎり自主的なリハビリをはじめて、すこし余裕が出てきたタイミングで杖を突きながら自宅のまわりを何周か歩いて地道に体力をつけました。

数カ月ほど経って休学届を提出するために専門学校的なところまでひとりで向かいクラスメイトに無事を伝えようとしたものの、「杖を突いている=足を怪我している」と思われたらしく、ちょっと動いただけで肩で息をする私に、「私らだって激しく動いて疲れてるのに」と言ってマジギレ。別の部屋に校長ポジションの人に呼ばれて注意されたものの、「お前らに何がわかる!」と啖呵を切って逆上の勢いを殺さずにまくし立てたものです。

それはそうです。健常者はおろか医療のプロですら耳慣れない「高次脳機能障害」という爆弾を抱えていたのですから。病気と違って、日常生活を送れるようになるまで寛解することはできても完治することは叶わない。私はあのときからもうクラスメイトと同じ人種ではなくなっていたのです。


健常者だったときの狼は…

私は幼少の頃から変わった子どもでした。血を見るのは怖いくせに将来の夢は救急隊員になりたいと幼稚園のときに言い、友達がお弁当を食べ終わって外の遊具でキャッキャと遊ぶなか、私だけ弁当箱をじっと見つめたまま蓋すら開けないものだから担当の先生が心配してしまうくらい食べるのを拒否する子どもだったのです。しかも言葉を覚えるのも平均より遅かったらしく、発達障害の気を疑われたこともあったそうなのですが、友達を家に呼んでTVゲームをして遊ぶことはできていたので結局気のせいというかたちで終わりました。

それから小学校にあがったものの独り言の多さに目をつけられて低学年のときにいじめに遭い、よりいっそう内に内に精神を閉じ込めていったように思います。
9才の頃に大好きだった母方の祖父が逝去して、叔父が気を紛らわそうと吹いていた口笛に興味を示すと瞬時に習得し、幼稚園のときにイベントで訪れたある楽団の非売品CDに収録された曲をパートごとに声を変えて歌う技をも覚えるなど、ますます変人ぶりに磨きがかかっていきました。

小学校高学年になるとクラスで2番目か3番目に声が低くなり、声における自由度が狭まったのを悔しく思って歌のキーの調節をはじめる始末。
かといって人前で歌えたのかというとそんなことはなく、中学3年のときの文化祭で歌うとなった際に恥ずかしすぎて泣きわめいたのを憶えています。歌うのは無理なのに泣くことには躊躇しないとはどういうことなんだ、私。
なんなら記憶を遡って幼稚園のとき、ピアノを弾く先生のまわりに友達が集まるなか、やはり私は泣き出してピアノと壁の間に挟まって歌うのを全力で拒否するほどのあがり症っぷりを披露していました。やっぱりよくわからないぞ、私。

恥ずかしがりだけで終わればよかったのですが陰キャ要素が増し増しになった中学3年生の私は、クラスの不良少年にちょっかいをかけられ反発したのがきっかけで、石灰まみれの黒板消しを頭に乗せられたり膝蹴りを腹に食らうなど手口が強盗のそれに近いいじめを受けました。
友達(だと思っていた人たち)に助けを求めたくても怯えるばかりで手を差し伸べることもかなわなそうだし、感づいたバカは増長の一途を極めて私だけが悲惨な目に遭って。。
高校に入る直前にだれよりも早く人間嫌いになったと思っています。

中学までは理系の成績がよかった私は高校1年の途中で数学がわからなくなり、2年生で文系の低級クラスになりましたが教科書にあった夏目漱石の「こころ」にふれて一気に読解力が覚醒したらしく、最終的には文系のトップクラスには至らずともそれなりの成績を獲得することができました。
それでも人間関係の作り方だけは至難を極めて、中学時代の水泳部の同士が所属する理系クラスの奴らと高校時代を過ごしていました。自分と違う考え方などを有した人といると落ち着くのです。同属嫌悪なのかどうかはわかりませんが。

そしてその高校時代の中盤以降に「声優になりたい」と思い、両親や当時の担任に相談したものの熱心に反対されてしかたなく大学に流れました。が、卒業間近になってもなおその夢は諦められず、もともと行きたくなかった大学だったがゆえに、「どうしてそのタイミングで!?」という時機を見計らって中退しその手の専門学校に入ったのです。
父は自分の思う安定した職でなければすべて反対するような人だったし、母は母で毒親の下で育ったと苦痛に満ちた表情を浮かべながら私に話を聞かせておきながら、息子が予想の斜め上を行く決断をしてきたことにひどく落胆して軌道修正を図ろうとしたので私のなかでひっそりと「毒親認定」をしたのでした。

そもそも声優になりたいと思ったキッカケは、私の根源的な欲求に「人を楽しませたい・笑わせたい・幸せにしたい」というものがあって、身近に感じさせてくれたものがアニメやゲームだったから。VHSが擦り切れるほど見続けたものは「にこにこぷん」のアニメーション。肝付兼太・横沢啓子・中尾隆聖。彼らの声はとても安心させられるものがありました。
まだアニメがゴールデンタイムに放送されるのがあたりまえだった時代に様々なジャンルのものを観てきたが、一日中それを流しているチャンネルがあるのを中学2年生のときに見つけて、そのときになんとなく眺めていたのが「銀河英雄伝説」でした。今でこそ鬼籍入りが多くなってしまい絵柄も現在の技術と比べれば古臭いですが、当時の役者という役者を網羅し台詞劇として進行させても何ら問題のない完成度の高い作品であり、世界観が壮大かつ登場人物の多さも凄かったので端役でも何でもいいからあの世界に飛び込んでみたいと思ったのがはじまりでした。

しかし演技力はともかく見てくれにはあまり自信がなく、仮に成り上がったとしても不安は付きものでした。まぁそんな悩みがどうでもよくなるようなスパルタな日々がはじまったわけですが、不思議とわくわくがとまりませんでした。もちろん苦手な分野もあって嫌な思いをしたのはたしかですが、高校時代の中盤近くから夢見ていたことにようやくたどり着いたのですから興奮が冷めやらぬわけがありません。ふたりの毒親に復讐がてら退学してまでやってみたかったことです。

「やっと、やっとやりたいことができる・・・!」

それからわずか4カ月と半分、私の人生は急転したのでした――。


障害当事者になった狼は…


「高次脳機能障害」

やや長めの漢字の羅列を見て(or聞いて)直感的に厄介なことになったと思った私は、自宅内をはじめその周辺を杖を突いて歩いたり体力に余裕のあるときに学校の授業見学をしたりしてゆく過程で色々な不便に気づきました。

  • 何かをはじめるとまわりが見えなくなるほどの集中力を発揮させること

  • 健常だった頃にすごく悩んでいた感情の出が爆発的に上がったこと

  • マルチタスク(ex:電話しながらメモをとる)がより苦手になったこと

  • 相手の言っていることが時折わからなくなったこと

  • とにかく疲れやすくなったこと

この5つの項目だけで、注意障害、失語症、遂行機能障害の3点が浮上しているのですが、その場でぱっと見ただけでは何がどう異常なのかがわかりません。「高次脳機能障害」は通称〝見えない障害〟と呼ばれており、たとえ障害の自覚が芽生えて自分の言葉で相手に説明できるようになったとしても、

「そういうことって、普通の人でもよくあることじゃん」
「そうやって言えば楽できるとか思ってんじゃねぇだろうな?」

などと心無いことを言われ、社会復帰どころか引きこもり具合が加速する同胞が後を絶ちません。
そんなに信じられないのなら各リハビリテーション施設に赴いて彼らの現状のありさまを確かめてみればいいのですが、無理に誘導させたところで余計に反発するだけですし、まさか「いちばんの近道は路上のど真ん中に立って車に轢かれ私たちと同じ状態になってみることです」とも言えません。私たちは奇跡的に助かりましたが、彼らも同様に息を吹き返すとはかぎりませんので。

「キチガイ」と言われれば「違う!」と即座に反論できないのが悔しいところであり、直接やられた箇所がそれぞれ違ううえに、「高次脳機能障害とはこういうものです」と断定的に言い表せない点もあるのでなおさら健常者の眉間の皺寄せがひどくなるというものです。
似たような事例で発達障害がありますが、高次脳機能障害との違いは先天的か後天的かによるもので、生まれつき障害を抱えているか途中で病気なり事故なりに遭って抱えてしまったかという差異があります。発達障害は近来理解が得られつつあるいっぽうで、高次脳機能障害はまだまだといったところです。

障害当事者と長く過ごしていた人たちからすれば彼らの急変ぶりに驚きを隠せないのは至極当然でしょうし、見た目が自分たちとほとんど変わらないおかげで、「思ったより元気そうでよかった」とか「これからどうするの?」と悪気なく言って困惑させてきます。特に後者の文言を聞かされた当時の私の胸中は、

「そんなんおれが知りてぇよ」

というありさまでした。自分のことなのにどこか他人事っぽく答えていて、でも本当にどうすればいいのかがわからない。そんな状態だったのです。

入院先の病院はわずか10日間で退院し、日産スタジアムの近くのリハビリテーション施設でしばらく身体的体力と心理を鍛えたのちに担当の先生に作業所を奨められて、そこに12年以上お世話になることになります。まさに小学校生活2周分ですね。

そこは2004年に開所した高次脳機能障害者のみが集う障害者作業所施設で、来年でめでたく20周年を迎えるわけですが、私は内12年在籍していたので5分の3もの期間を過ごしていたことになります。入所した当初いたメンバーはそれぞれにステップアップして、今や私が最古株です。

いつのまにか30才を超えひとり暮らしができるほどの体力や脳疲労に耐えられるようになったので、次なるステップは退所にむけての下準備といったところでしょうか。
実はつい数日前に作業所の統括所長と私と母の3人でオンライン上で面談をしまして、上記の旨をお伝えしたばかりです。今月から来年3月にかけての下半期を何事もなく過ごすことができたら、長年お世話になった作業所からの卒業を迎えるでしょう。その下準備をnoteですこしずつ整えていきたい所存であります。

ここまでお読みくださった皆さま、どうもありがとうございました。
長々としていて、かつまとめるのが下手くそな文章が目立ちますがどうぞよろしくお願い申し上げます。

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