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視点を変えるということ

いつもと同じ場所に住み、いつもと同じ道を通り、いつもと同じ仕事をする。継続は力なりで、得るものもあるけれど、その長年の習慣と積重ねによって、「同じ景色」は「同じ角度」から生み出されているだけかもしれない。

1、「視点を変える」ということ

人間の多くは、立っている状態で目の前を見ているかもしれない。でも、一緒に子供がいたら、身長は低い分、目線は下がる。そうするとどうなるだろうか。

大人では周りがよく見えたかもしれないけれど、こども目線で高さが低くなると、地面がより詳しく見えるかもしれない。大人が気づかなかった虫の存在、道端で花を咲かせている植物、地面の模様や凹凸…視点が変わるだけで、見えてくるもの、気づかなかったものが見えてくる。

おとなになると、どうしても、「経験」で物事を見ていくようになる。「あれはこうだよね」という常識と経験。それが、新しい発想や着想を制限しているかもしれないのに…。

だから「視点」を変えてみよう。いつもの場所で、立っているなら、座ってみる。片目で見てみる。振り返って見てみる。いろんな見方や視点があっていい。いつもと同じ場所、同じ景色なのに、新しいものが発見できたらラッキーだ。

人間は、どれほど時間を費やしても、一生をかけても、世の中のすべてを見ることはできない。だからこそ、「同じ」という時間は、もしかしたら「新しいなにか」のチャンスを失っているかもしれない。そう思えば、「新しい視点」が与えてくれる気づきや認識は、また、一つ、あなたにきっと気づきを与えてくれるはず。だから、何度でも何回でも「視点を変える」をやってみて欲しい。すべてを知ったような気にならずに…。

2、「利き手」の逆を使ってみる

人間は、無意識には「慣れている」ことをしてしまいがち。だからとっさに物を持つときや、何かぶつかりそうなとき、利き手をさっと出すことでしょう。それだけ、「無意識」にまで浸透した「慣れている」という利き手は、「いつもと同じ」という安定感と安心を与え、迷うことなく行動をしてくれることでしょう。

でも、そんなところに「意外性」をもたらすのが「いつもと違う」をやってみること。「利き手」が右手なら、左手で箸を使ってみる。かばんをもつのが左肩なら右肩に変えてみる。

(もちろん、安全が確保されて当然なので、利き手以外で草刈りや運転はもちろんやめてください)

いざ、動かそうとすると、一瞬戸惑うことでしょう。この「戸惑い」こそが、脳への大きな刺激になるはず。「どうやって動かすんだっけ?」っていう問いかけが、いつもの「常識」と「習慣」を問い直し、何が本当に大事か、ということを改めて理解させてくれることでしょう。

3、「自分」の違うは「他人」のもっと違う

自分が右手か左手か、ぐらいで違和感といつもと違う印象を与えるのですから、他人だったらもっと違うようになっているはず。とすれば、そもそも「人との違い」はあって当然。そして考え方も見方ももちろん違う。

いつだって、同意や同調、同じことを安心のために相手に求めすぎると、其の反動として反発や相違、あるいは仲違いまでしてしまうかもしれない。それは、自分の勝手な思い込みであって、「相手への自分の視点の強要」でもあるわけです。

そんなふうに、自分の「違和感」というものを認識するようになれば、この世の中の「違い」とは、もっと簡単に、気楽に受け入れられるようになるはず。

あの人とは違う。それでいい。違うからダメ。それは違う。違うけど、いいところもある。そうだ。でも、認められないのはなぜか…あ、自分の考えと同じように押し付けていたのかも。

そんなふうに気づき得られることが、多様性の第一歩。誰もが同じ考えで、国民全員が同じなんて気持ちが悪いじゃないですか。でも、それを実現しようとして、反対意見や都合の悪い意見が届かなくなり、裸の王様になってしまった、どっかの大統領がいま、窮地にたっていますね、そう言えば…?

多様性の強さ、それを今、世界中の人が認識しているのではないか、と本気で思います。「違う」を受け入れることは、実はとても強いんだということを…。

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