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消費の現場に思うこと

人がものを買う。必要だから買う。ほしいから買う。それは当たり前とされてきた。でもね、その原理原則ではない、「消費」っていうのが、とても大きく、そして、肥大して、私達の行動を促し、制約し、強制しているような雰囲気さえ感じるのですよ…。

1、「消費」とは「結果」である。

なにかものを買う時。例えば、スーパーでお菓子を買うとき、商品を棚から選んで、レジに持っていき、お金を払って、購入する。このプロセスをわからない人はいない。

お金が足りなければ、もちろん買えないし、在庫がなければ、隣のお店まで探しに言ったりするだろう。そこに不自然さも疑問もなく、ただ「商品を買う」というままに行動しているだけ。

でも、この行動が「何に起因しているか」ということを考えると、時代やトレンド、あるいは社会によって、だいぶ変わっているように思う。

例えば、行動経済成長期のころ、テレビで話題になった商品をみんなが一斉に買い求めてお店に向かった、というのを知ってる世代もいるし、Z世代などテレビの中で店で殺到する映像を見たりしてなんとなく理解しているといったことがあるだろう。

いま、そんなことはあるだろうか。よく考えれば、ネットや事前予約、あるいは抽選など、商品を買うまでの混雑は効率的に、そしてなるべく公平に(表向きかも知れないが)変えるように工夫されている。

そして、「転売ヤー」という言葉が生まれるように、人気が殺到するものは、組織的な動きで根こそぎ購入され、新品を直接お店から入手困難になったりする。

こうした、ある種の「熱狂」を生み出しているものはなにか。それは「社会における他人」という存在である。すなわち「評価社会」に生きる人間の姿そのものである。

2、「注目」される場が「個人」に変わった

かつての熱狂的な売場は、その「売場」時代に熱気があった。その場にいることが、消費という行動に関わる唯一の手段であり、それが「時代や流行」の最先端を行くという感覚を手に入れることができた。

ところが、いま、その「熱狂」は「個人」に変わったように思う。SNSを誰もが使い、個人としてのプロフィールとアカウント自体に、1つの仮想空間上の「場」ができていて、そこに「いいね」や「閲覧数(インプレッション数)」が明らかにされる。

それは関わりのあるなしに関係なく、ランキングという形で序列され、いっときの注目が、バーチャル空間ゆえ、リアルを上回る集中と熱狂を作り上げる。それが「炎上」という形で、負の方向に振れたときは、もはや誰も止めようがない状態に追い込まれる。

私たちは、もはや、コントロールできない「見えない力」に左右され始めている。それは、「評価」という人間関係における「他人」を何らかの価値や基準で分類することであり、その強弱関係によって、関係性をも左右するのである。

それが、「映える」という形で、ほしくないものや、必要のないものまで「とりあえず買う」という行動を促し、「知る▶買う▶見せる▶評価を得る」という一連のプロセスに半ば強制的にはめ込まれているといっても過言ではない。

その世界で、例えば、自分の普段の日常よりも「過大に」よい評価を得られたときは、まるで賭け事の「ボーナス」のような興奮をもたらし、脳内物質を大量放出されたような、「病みつき」を覚えることになる。これが、SNS依存とスマホ時間の増大に大きく寄与することになる。

3、「デジタル」に左右される人間社会

デジタル世界はまるで目指すべき桃源郷のような語られ方をしているが、データやすべての人間の行動や心理が数字で表されたからと言って、行動を大きく変えることはできないように思う。

なぜなら、「食欲」とは、「湧き上がる」ものであり、「数字の大小」でそれを裏付けられたからといっても、その数字が「おいしさ」としての「感覚」に再び転換できるとは思えないからだ。

すべての栄養素を踏まえたスーパーフードがあったとしても、液体では咀嚼する喜びは感じられない。パン1つですべてが満たされたとしても、きっと人は飽きる。では、飽きるからと言って毎日違った色にすればいいかといえば、そこに魅力はきっと感じないだろう。

私たちは「データ」にすべての課題解決を求めてはいけない。デジタル社会はあくまで、人間がいま、生きている現実というリアルの「反転社会」に過ぎず、それは、洋服を選ぶ時の「鏡」みたいな役割にすぎないのだ。

だから、私達の「買う」という消費行動は、どんなにデジタル社会が浸透したとしても、「選ぶ楽しみ」「魅せる工夫」「手に入れる喜び」といった情緒的側面の本質を失ってはならない。もちろん、戦略の中心はそこにある。

私たちは、デジタルによって、今まで見えなかった世界が見えるようになりつつある。それでも、それは「新しい」世界ではなく、あくまで「もう一つ」の世界に過ぎず、バーチャルの「自分」とは、自分を写した鏡の中自分であることを忘れてはならない。

いま、消費が楽しいか。いやもう一度立ち止まってみれば、行動そのものが消費されている、ということに気づくかもしれない。

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