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【死んだ山田と教室】誰がために悼むのかという問いかけ

えー、すみません。
他に書くべきことは沢山沢山あるのですが、アツアツのうちに感想を書かせてください。

同じノリを共有する男子高校生の会話劇、という離れ業


これはもうさんざん言及されていることだとは思うんですが改めて……
そして超超超厚かましくも、その凄さを際立たせるために拙作を引き合いに出させて?

男子校のひとクラス内での悲喜こもごもを描いた作品、ということを聞いて真っ先に思ったのが、「書き分けどうするんじゃ……」ということ。
私が「針を~」を書くにあたって、キャラ設定時に一番最初に意識したことが、「男性二人の会話がメインになるから、相当口調に差を付けないと書き分け無理だな」だった。
そして実際、「レオ節」「たっちゃん節」は、語尾や読点の置き方など相当差を付けている。


しかし「死んだ山田と教室」。ひとクラス分の、同じ17歳の少年たちを書き分けた上で声出して笑ってしまうほどの会話劇を展開している、この凄さよ……。

個人的に効果的だな、と思うのが、別府の存在。
読み始めて、席替えのくだりの後、「うわーこれ覚えきれるかなぁ……」と不安になった直後に、別府が登場する。
読んだ方は分かるだろうが、別府、忘れる訳がないインパクト。
これで「あ、大丈夫かも」という自信を得て、話の波に乗ることができる。別府エピ、マジで重要。

加えて、これも散々言われているが「区別が付かなくても大丈夫なシーン」「絶対にキャラクターを把握しておくべきシーン」の押し引きが計算し尽くされているな、と。

あとこれは個人的な想いだけど、
“会話文が何行以上続いたらダメとか面白さの前ではどうでもいい”
ことが証明されていてすごく嬉しかった。
自分が書くと、会話文が続く事が多いので……
とはいえ、会話文が続くなら相応の効果を発揮させなければいけない、と覚悟もした。


山田は猿田彦

もうここから完全にネタバレ。

山田は自ら、生を放棄した。
そしてスピーカー(ひいては教室)に憑依、これはもう、完全に地縛霊ですよ。
しかも、成仏する術の分からない、未来永劫に思えそうな地縛霊。
私は、これも個人的にだけれど、火の鳥に罰を受けて未来永劫宇宙を彷徨う猿田彦を想起した。
実際、山田が何らかの罰として地縛霊と化したかは不明だけれど。


山田、空っぽじゃない奴なんて居ないんだよ。

書いてて苦しい。
でも、17歳で、空っぽじゃない奴なんて、いないよ。
ほんの少しのことで、己をチューニングすることで立ち位置がガラリと変わる。
その虚しさは分かるよ。

もう私事を挟むのを完全に辞さない構えですけど。
私、中高時代すんごいくせっ毛で。
オシャレじゃない、笑えない感じのくせっ毛。
知らん人に後ろから「ちゅる毛」って嘲笑されるレベル。
でも、大学進学を期に縮毛矯正かけたんです。
そしたら、自分で言うのもなんですが、人並みにモテるようになったんです。
いやぁ……複雑でした。
髪の毛1発で、みんなの扱いがこんなに変わるんだ、男の人ってしょーもな、と思いました。

だから、山田の「これだけの事で?」という空しさにシンパシー覚えた。

それでも、多分みんなそうなんだよ。
中身ぎゅうぎゅうな奴なんていないし、それ以前に「ガワだけで判断する他者」が自分をさらに空っぽに見せてる訳でさ……

と、山田に語りかけたくなった。
ああ、書いてて苦しい。
もしかしたらあの先に、空っぽの器に溜まっていくものがあったのかもしれないのに、と。


誰がために悼むのか

先に述べたように、罰としてかは分からないけれど、山田は声と思念だけ復活した。
幸か不幸か……いや、これは不幸だろう。
どんなに楽しくとも、バカバカしい日常を続けようとも。

もし山田が復活していなかったとしたら、社会人になったクラスメイトは1人でも2-Eにやって来て居たかもしれない。
悼む、というプロセスを経ることが出来ていたら。

悼むことは、残された者がそれぞれに、逝った者を自分の中に落とし込み、溶け込ませることだと思う。それには、「忘れる」という行為も含まれるだろう。
山田の思念が存在したままでは、それは出来ない。
悼むことが出来ないから、クラスメイト達は物理的に山田と距離を置く。これはある意味正しい反応なのだと思う。
彼らなりの、悼むという行為の代替策である、と思う。

和久津だけは、それをしなかった。
それは、和久津が山田に抱いていた強い感謝と友情故だろうが、それこそが山田を生者と死者の狭間に縛り付けていた、とは考えられないだろうか?

人は2度死ぬ、とはよく言う。
1度目は肉体の死、
2度目は忘れ去られること。

ただ、人は2度「死なねばならない」と、私は思う。
忘れ去られる、は少し言葉が強いが、上で書いたように、残された生者の心に落とし込むという「悼み」を経てこそ、葬送は完成するのだと思う。

〇〇は死んだけれど、空から見守っていてくれる……
この〇〇は、ガチの〇〇であってはならない。
生者の中の〇〇でなければならない。

山田と和久津は、生の肉体を持っているのか居ないのか、それだけの違いで、2人とも地縛霊だったのだと思う。
そうでなければ、大人になって尚和久津が「お〇ん〇ん体操第二」の話をしていない。

山田と共に、和久津も又、成仏しなければならなかったのだ。

本作を通じて、山田という死者を可視化することで、返って「生者である」ことはどういうことか、が浮き彫りになったように感じた。

こんな重く苦しい展開と、軽妙で爆笑してしまう会話劇を共存させる。
傑作も傑作。後半ずっと泣いてました。
素晴らしい読書体験が出来た。

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