考えるな、感じろ
「考えるな、感じろ」
サッカーをしていた時よく耳にした言葉だ。
私はたぶん考えるより感じたい派。感情的で主観的。
でも、最近頭は固くなるばかりで、誰かの言葉に心を動かされたり、感情のままに想いを伝えることが少なくなったなぁと思う。
知識ばっかり増えると、自分が発する言葉も、他者から受けとる言葉も、自分の中のロジックに当てはめて解釈や整理をしようとしてしまう。
一つ一つの言葉や想いを、感じることよりも先に考えてしまう自分にそろそろ嫌気が差している。
そんな私だったが、最近受けた講座にとても心を動かされた。
スピーカーで来ていたある当事者の方は、長年の憤りや悲しさを素直に言葉にしていて、それに感動したのだ。
「なぜ〇〇という理由だけで、ありのままの自分で生きることができないのか?」
どこかで聞いたことのあるような言葉かもしれないけど、その人の発する言葉は人の考えや言葉に汚されてなくて、自分で考えて感じてきたことが荒削りな言葉となって表現されていた。
〇〇のところにはきっと色々な言葉が入る。
女(或いは男)という理由だけで、
LGBTQという理由だけで、
不登校であるという理由だけで、
障がいがあるという理由だけで、
お金がないという理由だけで、
外国人であるという理由だけで、
理由が分かっているだけまだマシだよ、という人もいるかもしれない。
理由がわからず、けれど不当な扱いを受けてる人もたくさんいるだろう。
「なぜ?」
「なんで?」
という叫び。社会に対する怒りやモヤモヤ。
それを抱えながら怒りやモヤモヤの中で生きる人、そこから抜け出し社会に自分を適応・納得させて生きる人、怒りやモヤモヤとは無縁の人(無縁だと思って生きる人)。
生き方は多様で、それぞれの心にその人が思う「正しさ」や「生きやすさ」みたいなものがある。
その一人一人の考えや言葉を受けた時、それらに勝手に解釈を加えたりジャッジをするのではなく、ただ何も考えずにじっくり味わいたい。
自分の心に素直でいたいのと同じように、他の誰かの素直な気持ちを大切にしたい。例えそれが自分では到底受け入れられないような考えだったとしても。
そんなことをまたモヤモヤ"考えていた"時(結局考えている私。笑)、
長年のパートナーに「社会に怒りやモヤモヤ感じたことある?」と聞くと、「ない。社会は他人」だそうで(笑)
なんとも斬新な答え。理解はできないが、なんだか心地よく感じた。
多様性を受け入れ合うことは基本的にはしんどい作業の繰り返しだと思っている。
でも、そんなふうに自分とは全く違う誰かの一言で日々のモヤモヤが馬鹿みたいに軽くなることもある。
とりあえず今日も自分にこう唱えよう。
「考えるな、感じろ」