正義について。善いことがあって、正しいことがある?
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こんにちは。いつもコラムをご覧いただきありがとうございます。S.C.P. Japanの野口(@noguchiaya)です。2020年の年末は沢山本を読むきっかけがありまして、いろいろとごちゃごちゃしていたことに、少しだけ光が見えたような感じで2021年を迎えることができました。その中で刺激的だった「善ありし正義」について本日は紹介します。
「正しさ」とは
「善ありし正義」とは、マイケル・サンデル氏が提唱している考え方です。そもそも、「正しさ」や「正義」とは、揺るがない絶対的なもののような気がしますが、実は歴史と共に様々に議論され、「正義」に対するアプローチは多様です。まずは、そんな「正しさ」、「正義」がこれまでどんな風に語られてきたのか、簡単に(本当は複雑なのですが)ご紹介します。
一人ひとりの幸せの合算の最大化が基準である(功利主義的正義)
近代に入り、まず議論されてきた「正しさ」の基準は功利主義を基にしたものでした。1人1人の幸せを合算したものを最大化することが望ましいという考え方です。功利主義的な「正しさ」は、1人1人の幸せの合算の最大化なので、必然的に社会の中でマジョリティの人々の幸せの最大化にまず取り掛かることが効率的です。そのため、社会的マイノリティの人々の幸せの最大化を目指すのは後回しになってしまいます。功利主義的な「正しさ」は一人ひとりの幸福の最大化の合算の最大値という結果論的です。GNP(国民総生産)などが指標として用いられることが多いです。
倫理的にやるべきことはやる(自由主義的正義)
一方で、自由主義(リベラリズム)的な「正しさ」は、個々人の自由の尊重です。非効率的であっても、倫理的にやらなければならないことはある。という「正しさ」です。「やらなければならないことはやらなければならない。やるべきである」という義務論になります。人権などの「権利」を保障することが前提になります。しかしながら、一人ひとりの自由と権利を保障することを追求すればするほど、一人ひとりの自由と権利が保障される社会にならないという矛盾に到達します。既にスポーツ界ではこのリベラリズムの限界が見え隠れしています。例えば、トランスジェンダーアスリートの競技カテゴリーを巡っての論争に全く収束の兆しが見えないのは、どちらかの権利を擁護すると、どちらかの権利を脅かすことになり、その折衷案が今のスポーツの構造の中には見つからないからです。自由主義を基盤として「正しさ」には限界もあるのです。
愛情や友情を基盤とした「善いこと」との関係性の中の正しさ(共通善の正義)
そして、昨今、議論が活発になってきている「正しさ」の捉え方が、マイケル・サンデルの「善ありし正義」です。これをコミュニタリズムとも言ったりします。しかし、これはいわゆる共産主義や全体主義といったものではありません。サンデルは、完全に自由に意思決定をしている自己なんて存在しない。ということを言っています。社会的な道徳観や、会社や組織の中での暗黙のルール、友達同士の何となくの合意や家族の中の当たり前。私たちは、自分で自由に意思決定をしているように見えて、多様なものに影響を受けながら意思決定をしています。身近な人々との相互の関係によって「正しさ」や「正義」が変わります。社会や所属する組織、家庭内の道徳観に影響を受けて意思決定するのは、そこがその人にとって生きる空間であって、その一員であることで安心と安全を獲得し、そのグループの中での責任を果たそうとするからだそうです。自由主義が前提としている、完全なる自由な独立した個人は存在していなく、何かに影響を受けている個人によって社会が作られています。
そんな社会において「正しさ」は、そのグループの「善いこと」に影響を受け決定されます。この「善いこと」とは多数派の意見ではなく、愛情や友情を基盤とした道徳観が基準になるとサンデルは言っています。そしてその「善いこと」との関係の中で「正しさ」も変化します。この愛情や友情を基盤にした「善いこと」を共通善(Common Good)と呼び、サンデルの政治思想は「共通善の政治学」と言われたりもしています。
※今回はこちらの本を参考にできるだけ簡潔に簡単に書いてみたのですが、私が理解しきれていない部分もあるかもしれませんので、より詳細は本でご確認ください。
共に、共通善を目指す。
功利主義的正義、自由主義的正義、サンデルのいうコミュニタリア二ズムの「善ありし正義」どれが、社会の真実を捉えているのか哲学者ではないので、簡単に結論付ける危険性を自覚しつつ、「愛情や友情」を基盤とした「共通善」とその「善」との関係性の中で生まれる「正義」という正義の捉え方とに出会えたことで少し救われました。また、その共通善は自分たちで作っていくもので(=自治)、それがルールになったり、道徳観になったり、暗黙知になったりしていくのです。「~すべき」といった義務感が基準ではなく「愛情や友情」といった「優しさ」を基準に「正しさ」を考えていけばいいのだと私の考え方を広げてくれました。
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そんな「共通善」をスポーツをきっかけに作れたらいいなとも思います。スポーツを通じてルールを作ったり、そこにいる人達と愛情や友情を基盤に自分たちに必要な道徳を考えて、多様な人たちと一緒に居心地の良い空間を自分たちで作ることにチャレンジできる環境を作れたら。なんて考えながら、目の前のことに真摯に向き合っていきたいと思います。
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