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道徳は教えられるか?

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皆さん、こんにちは。
S.C.P. Japanの井上です。

早速ですが、私達はスポーツを通じて、子ども達がそれぞれの人生において大切な価値を見つけたり、考えたりするためのお手伝いをしています。スポーツで道徳の授業的なことをしている、と言うともしかしたらイメージしやすいかもしれません。

道徳といえば、小学校では平成30年度から、中学校では平成31年度から「特別の教科 道徳」(道徳科)が始まり、道徳教育により一層の注目が集まりました。また、最近ではコロナウイルスによる情勢の変化に伴い、「モラル」が問われている、という言葉を良く耳にしますので、道徳観・倫理観というものの重要性に改めて社会が関心を抱いているような気がします。

そこで今回は私が道徳や子ども達との関わりにおいて、大切にしている ケアリング論(ネル・ノディングス)について書きたいと思います。大学院に入り様々な研究や理論を読み漁る中で、「これだ!」と強く共感した、大好きな理論です。
(理論を好き嫌いで考えている時点で、私は大学院生としてどうなのかと時々不安になりますが28年感覚的に生きてきた私らしいということで、ご容赦ください。笑)

1.道徳・倫理学に代表される2大主義

 まずケアリング論をご紹介する前に、道徳に関して重要な位置を占めている2つの主要理論からみていきたいと思います。これらは、行為や行動が正しいか否かを判断する際の判断材料として用いられます。

まず1つ目が、功利主義です。功利主義は「幸福の総量や社会全体の利益を増大させる行為が道徳的に正しい」とする考え方です。例えば、あなたが事実とは異なる嘘をついて10人が幸せになるのと、あなたが正直に事実を伝えて1人が幸せになるのとではどちらが正しい行為かを考える時、功利主義的な考えにおいての正しい行為は、1人よりも10人を幸せにする行為となります。基本的には、その行為が何であれ、その行為によって起こった結果が重要と考えます。

もう一方が、カント主義倫理学(義務論)です。カントは自然界に自然法則があるように、人間世界には道徳法則があると考え、嘘をつかない、盗みをしない、等々に示される道徳法則は、その行為に伴う理由や目的、結果が何であれ、自他の共存のために無条件的に守られるべき行為(完全義務)としました。また、「苦しんでいる人たちを助ける」などの善行ももちろん推奨されますが、これらは不完全義務と呼ばれ、「嘘をつかない(完全義務)」と「善い行いをする(不完全義務)」が両方発生する場合には、完全義務が尊重されるべきと考えます(「嘘をついて善いことをする」はカント的にはダメらしい)。このように功利主義とは異なり、カントの義務論では結果ではなく、その行為が道徳規則に従っているのか反しているのかで「正しさ」が判断されます。

道徳でジレンマ題材として用いられる「トロッコ問題」では、シナリオとして線路上の5人の労働者にトロッコが突進しようとしている場面に直面するというものがあります。もう一方の線路上には1人の労働者が作業をしており、あなたはトロッコの向きを変えるスイッチを入れることができます。この場合、あなたはそのまま5人に突っ込むか、スイッチを入れて1人に突っ込むか、どちらを選びますか?という問いです。
功利主義のもとでは、結果として1人より5人を助ける方が「正しい」とされますので、ここではスイッチを入れることが「正しい行為」となります。一方でカントの義務論では「人を殺める」という行為が完全義務に反するため、スイッチを意図的に入れることは許されません。よってスイッチを入れないというのが「正しい行為」とされます。

いずれにせよ、道徳教育はなんらかの「原理・原則」のもとで、「正しい」と大人が一方的に決めた価値観を子ども達に「教える」という形で行われがちですが、そうした従来の「教える」道徳教育や大人と子供との、そもそもの関係性(教える・教えられる)に疑問を呈したのが、ネル・ノディングスというアメリカの教育者です。

2.ケアリング論

ノディングスが提唱するケアリング論では、道徳をあらかじめ決められたものではなく、状況や関係性の中で日々編み出されるものだと考えます。つまり、そこに原理・原則は存在せず、常に行為の対象や状況によってその行為は変わるし、「正しさ」だって変わるということを言っています。
先ほどの「トロッコ問題」をケアリング論で考えると、この状況で命の危険にさらされている人が誰なのかがまず問題となり、また一見どちらかしか選択できない状況であっても、すべての人が助かる方法を必死に考えたり、もしくは、大きな声で叫び、必死に助けを呼ぶか、或いは危険な状況下にいる人々にその危険を伝えようとするかもしれません。功利主義やカントの義務論のようにあらかじめ定められた「正しさ」は存在しないのです。
また、教育者であるノディングスは、ケアリング論の中で教育現場での「ケアリング関係」の重要性を説いています。親と子のように、ケアされる者とケアする者の関係がノディングスの言う「ケアリング関係」にあたります。

ここでのケアリング関係とは、

ケアする者の一方的な働きかけではなく、

相互にケアし合っているという関係性。

ケアする者とケアされる者の立場は常に入れ替わる

ような状況です。親子関係、恋人関係、家族関係、友人関係あらゆる関係性が私たちの人生には存在しますが、これらの関係性の中で、どちらか一方が一方的に常にケアをする側として、何かを教え、働きかけているということはあり得ません。ケアされ、ケアするという関係性の中で、互いに共感が生まれ、相手のためにしてあげたいという道徳観(内発的に生まれる「~したい」という感覚)が生まれるのです。そして、個々人のもつケアリング関係やその経験によって内発的に生まれた「~したい」(=「~しなければならない」)という道徳観が、その後ケアリング関係の内外に関わらず、個人の行為や行動における判断基準となっていくと言っています。

3.「教師と生徒」「指導者と選手」におけるケアリング的関わり方

教育の現場では、指導者や教師がこのケアリング関係を上手く築けていないように感じることが多くあります。大人はケアする者、そして子ども達はケアされる者、として捉えてその立場を変えません。一方的に子ども達を理解したつもりになり、原則に基づく「正しさ」を道徳教育のみに関わらず日常のあらゆる場面で「教える」という立場をとってしまいます。「~したい」の前に教師として、指導者として「~しなければならない」という感覚が先行してしまっているような気がするのです。

スポーツ、例えばサッカーにおいては、もちろんコーチは技術や知識を「教える」立場です。トップレベルになれば、「教える」ではなく、個人にこうあるべきを「求める」こともあります。正しさを決めるのは監督やクラブとなります。対等な立場で一緒に考えましょう、というプロセスはあまりにも時間がかかり、ゴールの達成に対し非効率的だからです。

「スポーツとケアリング」確かに聞いたことがないし、相容れないような気もしてきます。

スポーツの世界で長年生きてきた私自身、「正しい行い」を常に教えてくれて、ケアする側に徹する立場を取る、いかにも強そうな教育者や指導者を崇拝し、憧れたことも多々あります。そんな強くてかっこいい指導者に自分自身がなりたいと思ったこともあります。

でも、私にケアリング関係(ケアされ、ケアする)を経験させてくれたのもまたスポーツです。サッカーをする中で得た仲間との関係や、対等な立場で接してくれた先輩・指導者との出会いがまさにそれです。

そして今も私の日常を支えてくれている人たちは後者です。

だから、私は子ども達との活動の中で、「教える」強い大人でいるのではなく、ケアされる者であり、ケアする者でもあるという関係性を彼らと築いていきたいと思っています。

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