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濱口竜介監督作品に見られる、計算づくの?未成熟ー『悪は存在しない』


数日前に鑑賞した『悪は存在しない』は実に完璧な作品であった。レビューを見ても異口同音に評価が高い。私も異論はない。が、しかし、なにか得体のしれない不満が残る。それがなにかというと、人間としての「成熟度」が映画の中にあるかどうかという点だ。目から鱗というほど人生を理解しているなと感じるかどうか、人間考察や、山に住む親子の心の内がどれくらい視聴者に伝わっているか?という点もそうであり、監督がその作品のテーマとする物事や人物へ考察がどれだけ深く、スクリーンに散りばめているかが私達映画ファンが作品を見る時の鍵である。勿論なにかワクワクやドキドキさせられるかどうかも大事である。私は40年以上ヨーロッパ映画を視聴して来て、ハリウッド映画ではなくヨーロッパ映画への愛情が深く、理解も深いと自負しているが、濱口監督の映画はとてもヨーロッパ的である。映画的技法も曖昧な終わり方も色の使い方も、静謐で時間が止まったような長いショット等々。しかし一つ違うのはヨーロッパの圧倒的な成熟があるのかどうかいう点だ。

濱口監督を支持するのは主に30-50代男性が中心だと思う(レビューなど読んでそのように感じる)。ヨーロッパ映画の成熟は彼らの心を打つとは言えず、言葉は悪いが、日本男性が持つ細かさ、完璧主義、人生観、女性と直接ぶつかることをしない、又は出来ない内気さ、「未熟さ」が、強烈に濱口監督作品に共鳴するのだと判断する。

積んできた人生経験もレールに乗りそこから外れていない、しかし厳しい日本社会で空気を読み、精一杯努力してきた真面目な人達だが、女性については奥手で、既婚者であってもあまり女性についての理解が深くはないから40歳過ぎてもまるでティーンのような幻想を抱いている場合も多い。『ドライブ・マイ・カー』は、社会的に成功している、舞台演出家が主人公だったが、この人はとても未熟であった。妻のことを理解出来ていなかったからこそ彼女を亡くしたが、その心に蓋をして生きて来た。それが正に上記の濱口ファン層の男の特徴である。彼が所謂視聴者が見る「自分自身」のアップグレードバージョン、かっこいい西島秀俊が演じたことで、自己陶酔し釘付けになったのだろう。それが証拠に準主役のドライバーである三浦透子には彼らは全く関心がない。男性のレビューの中で三浦透子について語っているものはほぼ見当たらないが、海外では三浦透子への絶賛レビューがたくさん見られた。この様に日本人男性に支持される主役像というものが、濱口映画には欠かさずある。

今作の主役、巧(大美賀均)は山で暮らす自称「便利屋」を生業にし、自分独自の生き方を貫く高潔な男である。娘、花(西川玲)を溺愛?しているが、おんぶして山道を歩く姿に視聴者はキュンとなったのだろうが、女の私からすると8歳の娘をおんぶするって頭おかしい?とまで感じた。多分濱口監督は意図的に巧の溺愛を表現するためだったのだろうが、甚だ気持ち悪く親娘二人の山の中の暮らし、特に仕事もしてないのに学童に預け、迎えに行く時間をしょっちゅう忘れる。ADHD?そんな欠点のある父だから夕飯を作るのも時々忘れたり、花ちゃんにとって幸せな環境かどうかは疑問だ。しかしこの可愛い娘との山籠り二人暮らしは男たちには刺さったのだろう。8歳なのに見た目は高校生くらいの顔をしていて、身体だけ小さい。この子役も男たちのロリコン心を擽る配役だったのだろう。濱口監督はそこまで計算済みだと推測する。

『寝ても覚めても』も名作だったが、濱口監督の問いかけは女の私からすると、簡単過ぎる解であった。「怖い女」像を描くが、同じテーマの『ドライブ・マイ・カー』ではミステリアスな中高年美女、寝ても〜ではメンヘラ系ゆるふわ清純派美女。結局は外見が8割で中身2割の自由な気質によって男は翻弄されるが、その「自由さ」を分析しても仕方がない。正解は、多分甘えたお嬢ちゃんの典型で、外見がきれいな分周りに甘やかされてきたからこうなった。責任感ゼロなのは社会的に重要な役割を担ったことがなく、自分のわがままな行動の結末を想像する力がないからだ。濱口監督は何故こんなに簡単に答の出る問をいつもテーマにするんだろうか?とこれらの作品を見て思った。しかし、それは監督が女性の「ミステリアス」に翻弄されたご自身の経験から?恐らく答が出ておらず、それを映画のテーマにしたかったのだろう。そこに日本の男は共鳴する。

本作のテーマはいつものテーマではなく、山の住人とそこに侵入する都会人との関わりで、相反する価値観を持った者たちの共生についてである。各自悪気はなくとも、社会としては不幸に突き進んでしまう現状を描く。そんな矛盾点を見せるが突然のある過激な行動があり、そのままエンディングだった。あれはなんだったんだ?という余韻を視聴者に持たせ、え?という間に畳み掛けるようなタイトルバックが流れる。シンプルな構成は素晴らしいのかもしれないし、それ以上の解釈や踏み込みを避けたのだろう。しかし、巧という男、父親と娘の描写がそこまで山や木々や動物と一体化しているほどでもなく、彼らのことをそれほど山の人とは実感は出来ない。巧の最後の行動は納得するレベルまでいかずにエンディングだ。テーマが自然の意思を体現する人、それが彼らだとすると、巧とその娘への考察がよほど深く、あちこちにその片鱗が見えてなければならない。

私からすると、娘役の女の子と父親のキモい感じが男性視聴者へのアピールと見え過ぎてしまい没入感はなくなった。以前からの濱口監督作品への男性ファンの大絶賛とが一本の線で繋がり、むしろ女の役割として娘が出てきたことを気持ち悪く感じてしまった。結論として、濱口作品とは『寝ても覚めても』は若い女性像、『ドライブ・マイ・カー』は中高年女性像、本作はロリータ女性像。全ての女性が8割美貌、2割純粋、しかし中身はよくわからない人物像であり(男目線)その謎の美貌や純粋、実際答はなんにもない〜空っぽ、に惹きつけられ、それ以外の映画表現や技工、うまいセリフ展開、数々のヨーロッパの巨匠を彷彿とさせる美術に魅了されファンが増えていくのだろう。

とは言え、自分はわざわざ本作を観るため公開後すぐ渋谷にまで行ったり、5時間もある『ハッピーアワー』も視聴したし、劇場公開の濱口映画は全部観てううう〜と唸りながら常にマックスの感動を得ているので、大ファンであることは間違いない。戦略的に日本の男性へアピールしているのでは?とと疑問に思ったのでこのような文を書いてみた。ファンの方々に嫌な思いをさせていたらごめんなさい。

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