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見えざる瞬間、見過ごされる瞬間たち

音楽関係の撮影をしていると、求められる写真はアーティスト本人の写真だったりするのですが、僕は主役であるアーティストと同じくらいに機材の写真を撮るのが好きだったりします。

若い頃、青山のスタジオに行った時にエンジニア長に見せていただいた古いマイク。とっても素敵なマイクは当時で50年以上前のものでした。幾多の名レコーディグを記録したマイクは風格に溢れていて、とっても素敵でした。

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最近はレコーディグ機材がプラグイン化してアナログ機材たちの出番も減り、スタジオによっては埃をかぶったままだったり、売り払われていたりします。

そんな彼らアナログ機材たちを忘れないように、忘れられないように、僕はシャッターのボタンを押しています。

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レコーディングが低予算化するのは仕方無い事ですが、作品クオリティまで低下している現代の音楽業界には心が痛くなります。

2000年以降の日本の音楽にはエポックな物は無く、二番煎じ、出がらし感が強くなってきました。青山のスタジオエンジニア長とお話した時に、「これからデジタル化が進むとスタジオもミュージシャンも淘汰されて行く。」なんて聞かせれていたのですが、どんどん現実になっています。

当時の僕は、本物が残る時代になる。という風に解釈して話を聞いていたのですが、実際には本物の人たちが消えていっている。というのが現実です。雨後の筍?な感じで決してレベルの高く無いアーティストたちが飽和状態、さらに配信ビジネスによる価格の低下、サブスク、youtube、etcのプラットホーム乱立。まぁ色々と大変ですね。

そんな中、僕は昔と変わらず写真を撮り続けています。

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機材やシステムはテクノロジーの進化で効率化、高音質化しているのですが何故でしょう、肝心の音楽自体は進歩どころか後退しているようにすら感じます。

もしかしたら、何回失敗しても大丈夫な状態よりも、失敗してはイケナイという緊張感の方が芸術には大切なのかもしれません。

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スタジオの片隅で出番を無くした古いオープンリールが、新人ボーカリストのデジタルレコーディングを心配そうに聴いていました。

時間の制約があるレコーディングでは、時として妥協の産物が生まれます。デジタルレコーディングは妥協の産物を量産するのが得意だったりもします。1小節に満たない録音や音程の外れたテイクも修正したり、切ったり貼ったりで、まぁ聞けるように出来ます。

でも、聞ける音にするのと、聴かせる音は違うのです。

そんな過去を写真で思い出しました。

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カメラを手にした時、僕は、ほんの少しのジャーナリズムを持つようにしています。

ただ、記録するだけでは無く、いつか、誰かに、何かを伝えたい気持ち。

それが誰かでは無くてもいいのです。

何年か先の自分でもいいのです。

その時の自分の気持ちとか想いが、数年後の自分に届けられるのも写真の不思議なのですから。

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そこで仕事をしている人たちにとっては日常の世界。

でも多くの人たちにとって見知らぬ世界。

そんな空間の中、決して傍観者にならず

そして空間の一部になりすぎずに

そこで起きている物語に寄り添いながら

僕は、僕の見た世界を記録しています。

スマホでも撮れるのですが、可能なら良いカメラで撮りたいものです。

撮り手の想いを受け止めてくれるカメラが良いです。

撮り手の想いに近いレンズが良いです。

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スタジオだったり、野外ライブだったり色々な場所

多くの人たちが見過ごす中、無言で頑張る機材たちを撮るのが好きです。

限られた時間の中、何かに集中して撮る事も大切だと思いますが、心にほんの少しだけ余裕を持って、誰も気にしない何かや、見過ごしてしまう何かを撮る気持ちも、個人的には大事だと思います。

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プロフェッショナルたちの想い

無から音楽という価値を生み出す時間

そこにある全部を記録したい。

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音楽という聴覚で楽しむ芸術を

視覚で楽しむ写真や映像に変換できるのもカメラの素敵な魅力です。

カメラって素敵な発明だと思います。

これからも、見えざる瞬間、見過ごされる瞬間を記録し続けたいなぁ。と思うのです。



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