要約:なぜ私たちは死ぬのか 第5章

2000年6月26日、クリントン米大統領とブレア英首相によって、ヒトゲノム全塩基配列が解読されたことが発表された。多くの人がこれによってヒトの遺伝的背景があきらかになり、病気の予防や治療が進むだろうと期待した。

しかし、ゲノム解読は始まりに過ぎず、DNAの多くは理解不能である。私たちのDNAのうち、生命機能の大部分を担うタンパク質を実際にコードしているのは、わずか2パーセント程度である。残りは、かつて生物学者が「ジャンクDNA」と呼んでいたものである。偽遺伝子と呼ばれる、かつてはタンパク質をコードしていたかもしれないが、現在は発現していない、あるいは機能していない領域の存在によって、その判別はさらに難しくなっている。

一卵性双生児は、DNAが運命であるという見方を裏切る。同じ環境で育った一卵性双生児が、統合失調症のような遺伝的基盤の強い疾患に関してさえ、時として大きく異なることがあるということである。私たちの細胞はすべて、受精卵というひとつの細胞の子孫であり、その細胞が分裂すると、同じ遺伝子を持つ新しい細胞が生まれる。しかし、これらの遺伝子は多種多様な細胞を生み出す。皮膚細胞は神経細胞とはまったく異なる。環境の変化に応じて、さまざまな遺伝子がオンになったりオフになったりする。しかし、このプロセスを逆行させることはできない。

環境の結果として、細胞の遺伝的プログラムにより永続的な変化が生じたことを示唆している。この変化を研究する学問はエピジェネティクス(epigenetics)と呼ばれる。

受精卵は全能性であると言われ、体や胎盤を含め、新しい動物を作るのに必要なすべての種類の細胞に発達することができる。数回の分裂を経て、胚は胚盤胞と呼ばれる段階に達する。胚盤胞はで内側の細胞は新しい動物を形成する他のすべての細胞に成長するため、多能性と呼ばれる。受精卵の特別な性質は、そのゲノムの結果なのか、それとも環境の結果なのか?カエルの胚盤胞期の細胞から核を取り出し、それを有核卵に導入すると、卵が正常に発育してオタマジャクシになる。しかし、発生後期の細胞から核を取り出した場合、卵は部分的に発生した後、停止して死んでしまった。その後、オタマジャクシの腸を覆う細胞のひとつから核を取り出し、それを紫外線を浴びせて核を不活性化させた卵に挿入した。その結果、卵は完全なオタマジャクシに成長し、腸の細胞核は卵の核が持つ発育に必要な情報をすべて持っていることが示唆された。完全に発達した動物の体細胞の核が、核を提供した動物のクローンであるまったく新しい動物の発生を指示できることを証明したのだ。つまり、体細胞は発生を後戻りさせることができる。

様々な体の組織に分化した細胞は末端分化細胞と呼ばれ、死ぬまで働き続ける。別の高度に特殊化した細胞は、老化した組織を再生するために新しい細胞を作り出す役割を担っており、これを幹細胞と呼んでいる。造血幹細胞は血液中の主要な細胞を造ることができるが、肝細胞や心筋細胞にはなれない。しかし、初期胚の内部細胞は多能性幹細胞であり、体内のあらゆる種類の細胞に成長することができる。これを胚性幹細胞(ES細胞)と呼んでいる。ES細胞と分化した細胞の持つ遺伝子は同じである。何が異なるのだろうか。遺伝子の発現を調節する転写因子に違いがあると考えられる。山中伸弥は4種類の転写因子によって線維芽細胞を多能性細胞に変えることに成功した。この多能性細胞を人工多能性細胞(iPS細胞)と呼んでいる。

各細胞は常に発現している遺伝子を持っている。それらはハウスキーピング遺伝子と呼ばれている。通常は大腸菌は乳糖に遭遇しないので、乳糖を消化するのに必要な酵素を常時作ることはない。乳糖を感知すると、適切な酵素を作り出す遺伝子をオンにする。乳糖がなくなると、これらの遺伝子をシャットダウンする。DNAの4つの塩基、A、T、C、G(RNAではTに相当するU)のごく一部に、塩基に付加された余分な化学基がある。これらの多くは、遺伝子のスイッチを長期にわたってオン・オフしておくかどうかのシグナルとして機能する余分なタグとして働くことがわかっている。最も一般的なものは、DNAのC塩基であるシトシンへのメチル(-CH3 )基の付加である。このようにして適切な位置にあるC塩基がメチル化されると、そのすぐ前の遺伝子はスイッチが切られたままになる。細胞分裂の際に正確なメチル化パターンを娘細胞に受け継ぐ。第二次世界大戦末期に飢餓に見舞われたオランダで妊娠した女性の子供が生涯を通じて肥満や糖尿病の罹患率が高い。その原因として飢餓が胎児にメチル化パターンを与え、それが生涯にわたって影響を及ぼし、老化に関連する病気や死亡率を加速させた。これは、外的ストレスがDNAにエピジェネティックな変化を引き起こし、それが生涯続くという顕著な例だとされる。

もうひとつのタグに、ヒストンアセチル化がある。DNAは、ヒストンと呼ばれるタンパク質で厚くコーティングされており、このタンパク質とDNAの混合物をクロマチンと呼ぶ。酵素は、ヒストンに特定の化学基を付加することによって、ヒストンにタグをつける。一般的なタグのひとつはアセチル基と呼ばれ、ヒストンにアセチル基を付加する酵素はヒストンアセチラーゼと呼ばれる。一般に、DNAメチル化とヒストンアセチル化は正反対の作用を示す。DNAメチル化は通常、メチル化領域に続く遺伝子をサイレンシングし、ヒストンアセチル化はその遺伝子が活発に転写されるようにシグナルを送る。どちらも脱メチル化酵素や脱アセチル化酵素の作用によって元に戻すことができる。

DNAのメチル化パターンと年齢との間に非常に強い相関関係がある。死亡率だけでなく、ガンや健康寿命、アルツハイマー病の発症リスクも予測できる513のメチル化部位が特定されている。長寿のハダカデバネズミは、メチル化パターンは、他のげっ歯類よりもゆっくりで時間の経過とともに死ぬリスクの上昇率が低い。

エピジェネティックな変化もまた、予定通りに起こるようだ。だからといって、老化そのものがプログラムされているわけではない。単純に、エピジェネティックな変化がどこかの段階で必要とされたときに起こるが、遺伝子を受け継いだ後のことは進化が気にしないので、仕事が終わってもスイッチが切られないだけかもしれない。多くの遺伝子を安定した形で停止させることで、エピジェネティクスは細胞が早期にがん化するのを防ぐこともできるかもしれない。テロメアの消失やDNA損傷への反応と同様、これもまた、がん予防と老化防止のトレードオフの一例なのかもしれない。

受胎時に、老化時計はゼロにリセットされる。老化時計をリセットするために、少なくとも3つの方法を進化させてきた。
一つ目は、生殖細胞はDNA修復に優れ、体細胞よりも突然変異の蓄積が少ないということである。
第二に、卵子と精子はそれぞれ、受精前に厳しい選別過程を経る。女性は胎児である間に、自分が持つことになるすべての卵子を産み出す。その数は、最初はおそらく数百万個だが、女性の一生で排卵によって使われる卵子は、そのうちのわずか500個にすぎない。受精する精子の選別はさらに厳しい。
第三の方法は、実際にゲノムを再プログラムすることである。受精直後、受精卵(接合子)は一時的に2つの核(前核)を持つ。接合子内の酵素と化学物質が、両方の前核のDNAのエピジェネティック・マークをほぼすべて消去し、新しいものを追加して、受精卵が赤ちゃんを作る道を歩み始める。

生命を制御する遺伝プログラムは、加齢によって蓄積されたゲノムの損傷によって破壊される。また、そのプログラム自体が、その時々の生物の必要に応じて、その場で様々に変更される。プログラムの産物は、細胞内のタンパク質の集合体である。これらのタンパク質は、複雑かつ相互に結びついた膨大な数のタスクを遂行し、まるで大きな交響楽団の奏者のようだ。


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