集団のために自己を犠牲にするのはなぜか:群淘汰説の起源

国際競技大会で知り合いがいるわけでもないのに自国のチームを応援することが多い。国のために命をささげる人もいる。こうした行動はヒトあるいは生物の進化の中で獲得されたのだろうか。すなわち、自分が属すると思われる集団のために自己をある程度犠牲にする行動は、種にとって利益があるという自然淘汰によって生じたのだろうか。

自然淘汰のレベルの問題は、進化生物学における基本的な問題である。ダーウィンは『種の起源』の中で、集団内の生物が様々であり、ある生物の種が「生命闘争」において他の種よりも成功しており、子孫が親に似ている傾向があれば、自然淘汰による進化が起こるだろうと主張した。ダーウィンの主張は、淘汰が遺伝子、細胞、集団、コロニー、種など多様なレベルに適用可能だと理解できる。変異、適応度、遺伝性(子が親に似ていること)を示す実体であれば、生物学的階層のレベルにかかわらず、理論的には自然淘汰による進化の対象となりうる。この可能性が、「淘汰のレベル」の問題を生んでいるのである。

淘汰のレベルの問題は、歴史的には利他主義(自己犠牲)という問題と密接に関連している。生物学における利他主義とは、それを行う個体にはコストがかかるが、他の個体には有益な行動を指す。これはダーウィンの原理と相容れないように思われる。自然淘汰は、他者ではなく自分自身に利益をもたらすような行動を個体にとらせるはずだ。一見グループあるいは種にとって有益な行動は、グループや種の単位で淘汰が働く結果進化したという群淘汰説を生み出した(Wynne-Edwards 1962)。同様の考えはノーベル賞を受賞した動物行動学者のローレンツも主張していた。

ここでは、多くの進化生物学者から批判された古い群淘汰説について紹介する。

ウィン・エドワーズは、群淘汰のアイディアを1962年の著書「Animal Dispersion in Relation to Social Behavior」で提唱した。彼は、群れを作る動物は、自分たちの個体数を調整し、資源の過剰利用を防ぐために行動と仕組みを進化させると主張した。ウィン・エドワーズによれば、動物は個体の繁殖成功を犠牲にしてでも、自分たちの群れや種の長期的な生存を確保するために、なわばり争い、社会的階層、繁殖の抑制などの行動を行う。

ウィン・エドワーズ以前にイギリスの人類学者アーサー・キースが1949年に刊行した「A New Theory of Human Evolution」人類の進化が群淘汰によるものだと主張している。

「人類の進化の最も進んだ段階では、集団やチームが淘汰の効果を及ぼす単位であったと仮定されるが、集団やチームを構成する個人の淘汰が常に行われていたこともまた認識されている。」
「W.マクドゥーガル教授もまた、人間の本性について進化論的な見方をしている。人間の道徳的本性の進化の主要な条件は、常に互いに争っていた原始社会の中での群淘汰であったことは疑いない(McDougall, Wm., The Group Mind, 1920, p. 264.)。」

キースはダーウィンが種の起源を執筆した時は個体淘汰が進化の主な駆動力だと考えていたが、後に群淘汰の重要性に気付いたと主張している。
「ダーウィンが1870年に『人間の由来』を書いたとき、進化の過程に対する彼の考え方は、深遠な、しかし見かけ上は注目されることのない変化を遂げていた。群淘汰が個体淘汰に取って代わり、少なくとも社会的動物に関する限り、そしてほとんどの動物は社会的である。… 最初の例は「最も共感的なメンバーを最も多く含む共同体が、最も繁栄し、最も多くの子孫を残すだろう」;共感によって団結した集団やチームは、そうでないものよりも強いのである。別の例では「同じ国に住む原始人の2つの部族が競争したとき、(他の状況が同じであっても)一方の部族に、常に危険を警告し合い助け合い守り合う準備ができている、勇敢で同情的で忠実なメンバーが多数含まれていれば、この部族はよりよく成功し、他方の部族を征服するだろう」; 集団淘汰が忠実さと勇気の成長を促すのである。第三の例: 「愛国心、忠誠心、従順さ、勇気、同情の精神を高度に備え、常に互いに助け合い、共通の利益のために自らを犠牲にする用意のある部族を多く含む部族は、他のほとんどの部族に勝利するだろう」。「そして、これが自然淘汰である」。これは確かに "自然 "であるが、その方法と結果において、『種の起源』で述べられている事例とはまったく異なっている。

ダーウィンが集団や部族に力を与えるとみなした他の精神的特質、彼らを破滅に導くと彼が信じた精神的特質について、簡単に記しておく。 「満足していて幸せだった部族は、不満で不幸だった部族よりもよく栄えた」、「利己的で争い好きな人々は団結せず、団結がなければ何も影響を与えることはできない」。 「殺人、強盗、裏切りが日常的に行われたら、どの部族も団結することはできない。」こうしてダーウィンは、原始時代に人間が生き残れたのは個人の功績ではないということを理解するようになった。 すべては、そのようなヒトが自分の長所を自分のグループの社会生活にどのように適合させることができるかにかかっていた。 ダーウィンは、原始的な人類の集団はあらゆる社会的美徳の苗床であり、ヒトが他のすべての動物よりも高い精神的および道徳的特質を獲得したのは群淘汰によるものであることをはっきりと認識した。

読者が私の現在の探求の目的を忘れてはならない。 それは、私たちが原初の世界のチェッカーボード上に集めたヒト集団に正当に帰することができる精神的特質を発見することだ。 前の2つのエッセイで、私は彼らに「集団精神」と愛国心の精神があると考える根拠を示した。 そして今、ダーウィンの助けを借りて、私はそれらを協同組合社会とみなす理由を述べている。つまり、親睦、善意、チーム精神が浸透している社会や部族では、協力がなければならない。 個人ではなく集団が選択の単位であるという認識は、進化に新しい原則をもたらした。 ラッセル・ウォレスは、ヒトの進化が集団選択の問題であることを最初に認識した人 (1864 年) だった。バジョットはそれを認識しました。ハーバート・スペンサーとサザーランドも同様だった。しかし、私がここで引用する証人はウィンウッド・リードだ。なぜなら彼の証拠は西アフリカの原始民族の間での経験に基づいているから。 「しかし、この共感は」とリードは1872年に書いている、「生存競争によって拡張され強化される。最もよく結合した群れは間違いなく生き残り、最も共感が発達した群れは最も効率的に団結するだろう。では、ここで、 ある群れが別の群れを破壊するのは、歯や爪だけでなく、同情や愛情によっても行われる……ヒトの群れの最初の時代には、ヒヒのように協力することは単なる本能的なものであった。」。



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