孤独な独身男性は「しあわせバター」味のカップラーメンで幸福になり得るのか

人は決して自分で思うほど幸福でも不幸でもない。

二宮フサ(訳) (1989) . ラ・ロシュフーコー箴言集p.24 岩波書店

 ファミリーレストランに行くと、子連れの家族やカップルがやたらと目につくようになった。おそらくそれは、私が他人とのつながりを求めているせいであろう。要するに、孤独なのだ。村上春樹の小説にも、孤独な独身男性が登場するが、大抵の場合、彼らは何かしらの思い出を大切に胸に抱きながら、その温もりと共に生きている。一方で、私には大切に抱くべき思い出も特に持っていない。そういう意味では、彼らの孤独よりも、私の孤独のほうがより実質的な孤独と言えるだろう。仕事も在宅勤務が中心となり、平日に人と会う機会は、殆どなくなってしまった。友人たちも、各々のパートナーと結婚したり、同棲を始めたりと、忙しそうにしており、どんどんと疎遠になっていく一方だ。やれやれ。
 そんなことを考えながら食事をしていると、ひどい焦燥感に駆られることがある。自分が、社会から取り残されてしまったような感覚に陥るのだ。しかし、そのことについてファミリーレストランを責める気は毛頭ない。そこは、ファミリーレストランであり、独身男性レストランではないのだ。過失があるとすれば、それは私の側にあるのだろう。最も、別の何か(例えばレストランの経営者や政治家など)に責任を押し付けたところで、問題は何一つとして解決しないのだが……。
 しかしながら、このような漠然とした寂寥感と孤独感を抱えていても、何ら不自由のない生活を送ることはできている。平凡な会社に勤め、平凡な仕事をすることで、平凡な暮らしを送るのに十分な収入を得ることができている。仕事の無い日は、好きな時間に起きて好きなことをして過ごしている。考えてみれば、それだけでも十分にありがたいことである。だが、「自分が幸福である」と確信することはできなかった。

 ある日、私は膨大な量の業務に追われ、12時近くまで仕事をしなければならなかった。その帰り道、深夜のコンビニエンスストアで買い物をしていると、とあるカップラーメンが目についた。しあわせバター味。
「このカップラーメンを食べれば、幸福になれるかもしれない」
私はそう思った。おそらく長時間の労働で脳が疲弊していたのだろう。あるいは、孤独感や寂寥感の蓄積が何らかの閾値を超えてしまったのかもしれない。いずれにせよ、私はそのカップラーメンを購入するに至ったわけである。
 一刻も早くそのラーメンを食べたかったため、コンビニエンスストアで湯を入れて、近くの公園でそれを食べることにした。4月の終わり、花がほとんど散り去ってしまった桜の木の下で。

 コンビニエンスストアをでて3分ほどが経った。カップの蓋を開けると、芳醇なバターの香りが漂ってきた。私は割り箸で麺をすくい上げた。今から自分は幸福になるのだ。
 麺を啜ったとき、スープの塩気とはちみつの甘みが一気に押し寄せてきた。「美味しさ」とはなにかを追求し、企業が研究に研究を重ねた結果として生まれた味。そんな味がした。それは、日頃から健康に気を使って野菜中心の食事を習慣としている私にとっては、いささか味が濃く、バターの油もやや強すぎるように感じられた。しかし、たしかに美味しかった。

 結局、私はそのカップラーメンを完食したのだが、それによって得ることができたのは、多少の栄養と深夜にカップラーメンを食べてしまったことに対する罪悪感だけだった。幸福が数百円で買えるわけが無いのだ。
 私は空になったカップを手に、家路についた。春風が、何かを告げることもなく通り過ぎていった。


サポートを頂けると幸甚であります。頂いたサポートは主に記事のクオリティ向上のための書籍購入等に使用する予定です。お力添えをお願いいたします。