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中学生関東修学旅行指南

【注釈】
 本文は2013年にkindle版で発行した稚拙文「関東点描」を再構成したものです。当時、札幌市から航空機利用修学旅行が可能となり、当時の勤務校で最初に関東修学旅行を実施した頃の中学生旅行ガイドです。2021年現在COVID-19禍の中では、もはや修学旅行の実施さえ困難な状況を迎えています。しかし、だからこそ伝えられる風景があると考えてnoteにて再掲載をしたものです。記述内容は、現在に置き換えているものの、一部に現状と一致しない2013年段階の描写があることをお許し頂きたいと思います。



北の街から関東へ~関東修学旅行の意義~

 関東への旅の出発が近づいている。
 この関東への旅の主題のひとつは中世以降の日本史の表舞台を見学することである。中世の日本史というものに、私どもの生活する札幌は登場しない。
 ここでいう日本史を、言語や文字をもつ人間生活の営み(文化)の形跡が残っていることとすると、私どもの住む札幌は、その開拓が始まってから150年にも満たない。
 少し詳しく述べると蝦夷地が北海道と改名されたのが明治2(1869)年。その後、開拓判官として佐賀藩島義勇が着任し、札幌の街作りを開始した。この頃建てられた、一番古い建造物は札幌ファクトリーのレンガ館であろうか。かつては開拓使麦酒醸造所として明治9(1876)年にできている。
 従って私どもの学校周辺で明治以前の文化を知る手がかりは少ない。先住民としてのアイヌ人の生活か、あるいはそれより遙か昔、縄文人の遺跡が現在の札幌駅から出土されている(K135遺跡)。
 このことからわかるように、私どもの町は、日本史の中では明治以降からその地政学的な歴史を刻み始める。150年ほど前までは原野だったのだ。広大な石狩平野の地殻変動や野生動物が駆け巡り営々と長大な時間を飲み込んできた。私どもの学校の建つ土地も、かつてはキタキツネが闊歩し、エゾオオカミがエゾシカを追って狩猟するような原風景であったろうか。

 これが近畿地方だとかなり趣が違ってくる。
 例えば京都。
 平安遷都から数えると1200年近く人が刻んだ歴史の重みがある。朝廷を中心とした歴史物語からはじまった町は歴史が歴史でなく現在進行形だったりする。
 例えば、お隣の古いお菓子屋さんの昔のお得意様が織田信長だった*。というように、日本史を博物館のショーケースの中で見るのではない、過去から現在に確実につながっているホンモノのもつ凄みがある。

*「松風」亀屋陸奥(かめやむつ)(京都)

 歴史が現在進行形で存在すると言えばよいのだろうか。
 だから、当然のことながら京都の中学生と札幌の中学生は社会科の歴史授業の受け止め方も違っていると思う。札幌の中学生が写真や資料を見て、先生の解説を聞きながら必死に当時の様子を想像してみたり、時代背景から歴史上の人物の立場を考えてみたりするのに対して、京都あたりの中学生は、「ああ、センセイまたウチの隣のおっさんとこのご先祖の話ししてはるわ」などとあくびをする子がいてもおかしくない。

 話がそれてしまったが、日本史のその史実の現場を訪れるということは、多少大げさに言うと、教科書に並ぶ文字の羅列から、時空を超えた史実の空気が立ちのぼり何者かが語りはじめる。というようなものだ。特に、その人物が過ごした建物や残したモノがあればこの傾向は強くなる気がする。

 そういう意味で、関東の中世を眺めてみると、日本史の大御所がうようよしている。例えば、中央集権という現在の日本国政府と同じ統治スタイルを作り出したのは源頼朝である。その後、年月を経て再び関東に政権を戻したのは徳川家康である。この旅は、この二人の人物の拓いた道を辿り、現代に生きる諸君に何事かを問いかける旅なのかも知れない。
 ついでながらいうと、日光東照宮内には、神輿舎という建物があり、この中に三基の神輿が納められている。中央が家康、右が秀吉、左が頼朝の神輿である。三人のうち頼朝と家康は関東政権(秀吉は関西政権)と考えると、神輿舎が建てられた寛永13(1636)年当時から、この二人の関東への影響は大きかったに違いない。

 この稿で書いた中世以降の土地は、鎌倉時代(1185年~)の政権首都であった鎌倉市。およそ260年に及ぶ長期政権を維持した江戸時代(1603年~)東京都。その長期政権の基盤を作った家康を神として祀った江戸時代中期建造の日光東照宮。そして徳川江戸政権が崩れる幕末の黒船来航から明治初期(1853年~)に開港した横浜市(横浜港)である。
 伝えたい内容としては、それぞれの土地で誰が何をしたか。その証拠や手がかりとなる遺跡、史跡、建造物を紹介している。それぞれの建造物の描写はあえて大変大雑把なとらえ方と記録にしている。これは所詮、稚拙な筆者の表現ではたかが知れているからであり、百聞は一見にしかずのとおり、実物を見て感じる領域が確実に広い事を前提として読者に委ねたい。

 ささやかな願いとしては、(これは大きなお世話かも知れないが)ある土地を初めて訪れる場合に、あらかじめ歴史的な背景なり、関連する登場人物について多少なりとも予備知識を持って対象物に出会った場合と、そうではない場合、ものの見え方や感受性の深さが異なると思って書いた。
 修学旅行という、おそらく多くの生徒は決められた時間で移動して、貴重な歴史と出会う。そのための予備知識として読んでいただくと心強い。
さらに言うと、本稿は現地の解説展示物に書かれているような内容にはあまり触れていない。どちらかというと、その周辺の空間や佇まいを書いた。それは、過去で止まった点としての歴史をできる限り、現在につながる線として捉えたい願いがある。
 歴史的な建造物や史跡は現在の視点で見ると点に過ぎない。所詮、「ああ、昔はそうだったのだ」程度の捉え方をするならば、過去に起きたことの証としての点である。
 しかし、その建造物や史跡が「その場所でなくてはならなかった理由」を想像すると、それは点ではなく、過去から現在まで何らかの理由があってつながる線となる。
 その歴史の舞台が「なぜ、そこで無ければならなかったか」という、地政学的な見方ができるといい。
 江戸(東京)にせよ、日光にせよ、あるいは横浜にせよ、「その土地でなければならない理由」がある。何の変哲もない土地が歴史の中で脚光を浴びる場所になる所以を想像してみていただきたい。
 さらにいうと、見物にあたっては、その人物が居住し、残したものをよく見ることも大切であるが、その人物が見たであろう、その土地の風景やにおい、あるいは風を感じて欲しい。過去の歴史を刻んだ人物が、何を思いその景色を見たのか。その人物が感じたであろう気分を味わえるのも旅の醍醐味と言っていい。


頼朝が見た海

 横須賀線の電車は、三浦半島の根元を抉るように南へ進む。途中大船駅で東海道線と別れると、しばし住宅地を見ない緑の中を進む。短いトンネルを通過すると、まもなく鎌倉駅に着く。

 トンネルと書いたように、鎌倉という町は山を背後に、正面に相模湾を望む地形である。


 鎌倉の海を由比ケ浜と呼ぶ。

    余談になるが、夏目漱石はこの鎌倉に別荘を構えていた時期がある。この風光明媚な遠浅な海を夏目漱石は『こころ』の冒頭で、主人公の「私」と「先生」が出会う海水浴場として描いている。おそらく漱石自身も泳いだであろう。今は夏の海水浴に限らず、湘南の名の通りサザン・オールスターズなどの音楽やサーフィンで通年賑わう砂浜に変わった。

 さらに話がそれる。今でこそレジャーとしての海水浴は一般的であるが、幕末までは、川で遊ぶことはあっても海で泳ぐ習慣は(海浜近くの集落でも)無かったらしい。この海水浴というも明治の初めに、健康法として広まったと伝えられる。広めた人物は幕末軍医総監松本良順という。
 由比ケ浜は、いわば海水浴発祥の地でもある。
 ついでながらいうと、松本良順は新選組とも親交があった。新選組が京都においてその名をとどろかせた頃は近藤勇と親交をもち、屯所の衛生指導を行った。さらに、新選組の末期では新政府に対して賊軍扱いであった新選組の名誉回復につとめた。
 新選組と北海道との結びつきは、戊辰戦争の終盤函館で戦死した土方歳三が有名であるが、新選組隊士のうち小樽で生涯を終えた永倉新八という人物がいた。新選組二番隊組長であり、新選組の名を広めるきっかけとなった池田屋事件でも活躍したこの人物は77歳まで長命した。晩年、良順の支援を受けて、かつての同志である土方歳三、近藤勇の墓碑を東京都北区板橋に建立している。また、北海道大学へ剣術師範として訪れており北大正門にその記念プレートが残されている。私どものすぐ近くに幕末京都の血風を駆け抜けた新選組隊士が来ていたのである。


 話がそれた。改札を抜けて鎌倉駅東口に立つ。

 駅前広場は、銀行や瀟洒なビルが建ち並び、その隙間の小道に赤い鳥居が有り裏参道となっている。小町通りと呼ばれる。土産物の店が軒を並べる通りは見て歩くだけでも楽しい。途中で右折し大きな通りへ出る。北北東方向へ坂道がゆるやかに伸びている。途中この道は若宮大路という名前に変わり、車道に挟まれた中央緑地帯に桜の木を植えた遊歩道がある。段葛(だんかづら)と呼ばれるこの参道は春先には桜のトンネルになるという。
 やがて朱色の鶴岡八幡宮の大鳥居をくぐると、蓮の花が咲いている池が左右にある。さらに玉砂利の道を行く。この道で毎年四月に流鏑馬が行われる。

 かつて静御前が義経を慕って舞を舞った舞殿(下拝殿)を右に過ぎる。
 壁のように立ちはだかる大石段の登り口左手にかつて大銀杏があったらしい。らしい、というのは樹齢千年をこえる神木は平成22年3月の猛烈な低気圧からの強風を受けて倒れてしまった。今はその巨大な根の一部を残すのみである。しかしながら、巨大な切り株の所々に銀杏の小さな若い枝葉が生えているのが観察できる。おそらく、これまでの鎌倉千年を見てきたものが倒れたあと、これからの千年を眺めることになるに違いない。
六十一段の大石段を一息に昇りきる。
 桜門をくぐる前に呼吸を整え、吹き出る汗を拭う。これから見る情景を前に、今一度心を整える。門をくぐると本宮が出迎える。朱塗り白壁の本殿が周りの空気を圧倒している。
 社殿の細かな構造をゆっくりと見て回り、再び石段の最上部から景色を眺める。
 視界いっぱいに鎌倉の町が広がり、眼下には一直線に参道が伸びている。
そのむこう。

 遙か遠く相模湾が霞んで見える。

 鶴岡八幡宮は源氏の氏神として建立されたと言われる。頼朝はまず八幡宮を建立し、鎌倉の街作りを行った。この町が背後に山をもつことはすでに述べた。頼朝がこの場所に政権基盤を築いたのは、この山が天然の要塞の役割を果たし、正面の海を監視するという防衛上の戦略が関連していると思われる。

 余談になるが、これまで札幌の中学生の修学旅行というと東北岩手方面が比較的多かった。おもな旅行先として世界遺産となった平泉中尊寺を訪れる。この地は一世紀近くの栄華を極めた奥州藤原氏の領地である。かつて頼朝の弟義経は、藤原秀衡を頼り平泉で六年を過ごす。その後、義経は平家との戦績を重ねると共に、兄頼朝との軋轢を深める。頼朝から逃れた義経は再び平泉に現れるが、頼朝の奥州への挙兵によって兄弟は終焉を迎える。奥州藤原氏は敗れ、鎌倉政権の樹立となる。不思議なものだが、かつての私どもの旅行地が平泉から鎌倉への変更となる伏線は、いにしえの物語を辿っていることになるのかも知れない。

 頼朝は、その肉親をも抹殺して得た政権を強固なものにしたかったに違いない。
 妻である北条政子が長男頼家を懐妊の際、八幡宮の参道である若宮大路を造った。頼朝は折に触れ、八幡宮へ参拝していたはずである。その帰路、頼朝が見た相模湾はどのような心持ちを映していただろう。
 やがて生まれる世継ぎへの期待か。壇ノ浦の戦いでの平家との攻防を経た安堵の安らぎか。弟義経討伐の後悔か。また、そぞろ攻めてくるかも知れない未知の敵への警戒か。
 1192年征夷大将軍に命じられ、その7年後に病に倒れ齢53歳で亡くなる。
日本最初の武家政権の首領は、その決して長いとはいえない生涯のうち、鎌倉の町に暮らしたのはわずか14年ほどである。

 頼朝は、この海を見て何を思ったのであろう。
 それまで誰も成し得なかった最初の武家政権樹立者ゆえの、誰にも知られることもない苦悩があったであろうか。

旧日光街道

 地下鉄銀座線浅草駅から地上にでるとたちまち真夏の日差しとアスファルトの灼熱にさらされる。頭から流れ落ちる汗もそのままに東武浅草駅まで歩く。
 それにしても近年のこの都市部の暑さは何であろう。かつて筆者が都区内に居住していた頃の住居にはエアコンが無かった。それでもなんとか健康的に夏は凌げた。今はもうエアコン無し、ということは生命の危機を表すのではあるまいか。

 エスカレーターで二階へ上がる。
 改札を抜けて、ホームに出ると白地にブルーラインを纏った流線型の車両が滑り込んでくる。
 「きぬ」という名の特急スペーシアは1990年製造の車両。最近の新幹線E5系、N700系などのやたらとノーズが長い最先端車両を見慣れた目には、ちょっと懐かしいデザインの車両である。全席指定、乗客もまばらで大変快適な車内空間である。
 浅草駅を滑り出てすぐ「とうきょうスカイツリー駅」に止まる。この超高層自立式鉄塔を車窓から首をねじりつつ眺めると、かつてこの駅が業平橋という名前だったことを思い出す。かの伊勢物語の主人公も634mの前にはひれ伏すしかない。
 電車が利根川の鉄橋を渡ると、途端に風景は田園地帯となる。遙か遠くに足尾山地を望む。この足尾山地の奥、渡良瀬川上流に明治時代に鉱毒事件を起こした足尾鉱山がある。当時の栃木県議員田中正造がその生涯をかけて解決に奔走したあの鉱山である。かつて江戸初期に幕府直轄の鉱山であったが、のちに古河市兵衛が引き継ぐ。現在の古河機械金属(古河電工)である。我が国の鉱業発祥の地である。
 これはあとで調べてわかったことだが、足利学校という鎌倉時代にできた学校もこの辺りにある。これらの事実をだけでも、栃木県(下野国)足利という土地はかつての関東を揺るがすようなエネルギーを持っていたに違いない。
 電車は栃木駅でしばらく停車する。
 栃木はかつての宿場町である。江戸からの流通商都として栄えた。当時の名残が、あちこちに残る蔵でわかる。
 この東武鉄道の線路は、かつて日光街道という宿駅二十三を数えた江戸五街道のひとつとほぼ並行している。そのうち、この栃木までは奥州街道と重複しており、江戸日本橋から栃木まではおよそ百㌔の道のりとなる。先人がどれだけの日数をかけて歩いたか。そのようなことをぼんやりと考えていると、再び電車は走り出した。
 やがて下今市から本線と別れ西へ進み、しばらくすると日光駅に着く。

いろは坂

 東武日光駅前でタクシーに乗る。
 「お客さんは札幌の人なんですね」
 私もそうなんです。と運転手はいう。十年ほど前にこの土地で働き始めたらしい運転手の口調になるほど栃木訛りが無い。華厳の滝までは大体五十分くらいでしょう。といい、巧みに裏道を選び先を急ぐ。

 栃木県北西部に位置するこの町は、かつて東照宮の門前町として栄えた。
途中、いくつかのテーマパークを過ぎる。かの有名な日光猿軍団は指導する人材が不足し、平成25年暮れに閉館してしまった。(2020年現在営業再開)
それにしても、日本の、特に温泉地周辺の観光施設はどうしてこうも似ているのか。今は営業を止めたウエスタン調のテーマパークのおよそ周りの風景に馴染まない残骸に興が醒める。

 しばらく走ると猛烈な蝉の声が響く山間に入る。日光山内という、いわゆる日光の二社一寺を包含する、ユネスコ世界遺産登録地域となる。
 このあたりはかつて山岳信仰の場であり、天平神護2(766)年、僧勝道が開いた。このあたりの山岳を二荒山(ふたらさん)とよび、上人は二荒山神社を造った。これは、伝記の域を出ないが、かつて弘法大師(空海)がこの地を訪れた折、二荒と「ニコウ」と読んだことから、現在の日光の字を当てたという話が残っている。

 話がそれるが、山岳信仰の修験者たちは宗教上の制約で菜食であった。この頃から携帯食料として日光湯波(ゆば)が用いられた。「湯波」と書いたが、この豆乳を加熱したときに上ずみに薄くできる膜を最初に生産したのは京都である。京都では「湯葉」と書く。京都湯葉は、薄膜一枚を調理するが、日光湯波は、薄膜を棒でつり下げて二つに折る。二重となる構造故ボリュームがある。かつての修験者はこれときな粉などを携帯食料として険しい山間へ分け入った。現在、湯波料理は日光市内の老舗小料理店や鬼怒川温泉の宿でも提供される。調理のスタイルとしては、湯波を巻き油であげた「揚げ巻き湯波」が多い。また湯波槽から引き上げる最初の湯波から厳選された湯波が「湯波のさしみ」として提供される。いずれも風味、舌触りが滑らかで美味である。

 話を山岳信仰に戻す。
 山岳のうち、とりわけ主峰男体山(なんたいさん2486m)は御神体として修験者の霊場であった。この男体山を男性の山として、北東方向にある女峰山(女性)、そしてこの二つの山に挟まる形で太郞山(子ども)を加えたものを総称して日光山という。
 男体山はその名の通り、女人禁制の山であった。途中、「馬返(うまがえし)」という地名を過ぎる。その昔、旅の交通手段のひとつが馬だった頃に男体山の裾野を駆け上がる山道は馬には無理ということだったろう。

 車は、曲がりくねった登り道を縫うように進んでいく。右に左に体を揺すられる。
 いわゆる車好きに走り屋という人種が居る。この方々はこのような道を好む。峠族とかドリフト族という。カーブを曲がるときに車の後部車輪を滑らせて抜ける。それ故事故が後を絶たず、少し前まではそのような族の規制があった。何しろ標高差500m、上りと下りで計48のカーブがある。

 「いろは坂」という。
 正式には国道120号線。いわゆる仮名文字の覚え方四八字の「いろはにほへと…」、とカーブの数を合わせてこの名前をつけたという。上りが「い」から「ね」の二十。下りが「な」から「ん」までの二十八。ともに一方通行路である。地図で見るとその曲がりくねり方が小腸のそれと似ている。
 運転手は巧みにハンドルをさばきながら、様々な説明をする。
 その中で、突然質問を受ける。
 「お客さんはいろは歌を習いましたか」
 と言われて、
 「習いませんでしたね。」
 「運転手さんは習ったのですか」
 「いえ、習っていませんね」
 このあと私が言葉をつなぐのが通常の習わしだが、何も浮かばず時が過ぎた。何となく気まずい心持ちとなる。

 そもそも「いろは歌」について正確な知識が無い。あとで辞書を引くと、
『すべての仮名を重複させずに使って作られた誦文のこと。中世から近世まで使われたもの』かつては、辞書や人名録なども「いろは」の順で作られていた時代があったということである。ついでながら、現在の五十音は『日本語の仮名文字(平仮名、片仮名)を母音に基づき縦に五字、子音に基づき横に十字ずつ並べたもの。』とある。

 途中、明智平で休憩をとる。眺望が素晴らしい。ただ男体山は霧の中に霞んでかすかに中腹が望めるだけである。ここからロープウエイが上まで伸びており、ここからは華厳ノ滝と中禅寺湖の両方を展望できるらしい。「明智平という名前はどこから来たのでしょう」と運転手に聞くと、男体山を間近に望む風光明媚なこの場所の名をつけたのが天海大僧正という僧であり、この僧の実体が本能寺で信長を焼いた明智光秀その人だという言い伝えがあるが真偽は定かではない。とのこと。

華厳の滝

 再び車に乗り込む。
 明智平を過ぎ、長いトンネルを抜けると中禅寺湖に出る。この湖のもつ不思議さは、かの急峻な山道を越える難儀さにも関わらず、明治中期から昭和初期にかけて争うように欧米各国の大使館別荘が建設されたことである。なるほど湖畔の風景は美しく、冷涼な気候である。さらには、おそらく秋の紅葉の見事さを伝え聞いたのであろう。今でも各国の外交官たちが避暑に訪れるリゾート地である。

 華厳の滝の駐車場に着く。
 ここからエレベーターで降りる。本来エレベーターは昇るものである。つまり駐車場は滝の上ということである。往時、遙か100mの落差を道無き道を降りて(というよりも落ちる感覚が強かったであろう)滝を眺めた人物の心持ちはどうだろう。今は、昭和5(1930)年製のエレベーターが約1分で運ぶ。
 エレベーターの扉が開くと冷気が体を包みこむ。観瀑台までの楕円の形をした地下通路の白壁を水滴が濡らしている。出口がやたらと眩しい。
 観瀑台に出ると最初に目につくのが左手の滝で白雲滝という。急峻な山肌を嘗めつつ谷底に駆け下りるこの滝だけでも充分見応えがある。
 さらに階段をのぼると右手に華厳ノ滝が現れる。安山岩を主とする垂直の岩盤を、轟轟と水が落ちる。滝の左右には、安山岩あるいは石英斑岩と思われる柱状節理が見られる。これは、この地帯の地形が古代の火山活動によってできたもので、あとで調べてみると約七千年前の男体山の噴火で流出した溶岩が中禅寺湖を作り、溶岩の断層部で滝を作ったとある。言わずもがなの名瀑である。

 再び、エレベーターに乗る。
 エレベーター内部の壁にもたれながら、「30人定員」のプレート表示を眺める。それにしても、今から約90年も前に岩盤を掘削してこの乗り物をはめ込んだ技術力はどうであろう。戦前の人力中心の能力を思うと気が遠くなる。
 再び車に乗りいろは坂を降りる。途中車窓から灰褐色の岩盤が広がっているのが見える。屏風岩という。紅葉の季節はこの岩と赤、黄色のコントラストが美しいらしい。
 余談になるが、男体山は女人禁制の山だということはすでに書いた。もし女性が男体山を拝んで下山すると、ただちに捕らえられしばらく監禁される。いわゆる「穢(けが)れを取る」儀式であると思われる。そのための女人堂という建物が未だに残されており、これがいろは坂後半の鬱蒼と茂った木々の間に見えた。現世に棲む私どもは、老若男女そんなことも一切気にも留めずいろは坂を平気で往来する。

 最後の「ん」のカーブを抜け下界に降りた。
 


東照大権現(日光東照宮)


  曇りがちの空の下をもう一度日光山内に戻る。
  先ほどの華厳ノ滝から続く大谷(おおや)川が流れている。
(若干興覚めする事。中禅寺湖からの流水量は人の手によって制御されている。つまりは、華厳滝の落水の美しさも、冬期間の結氷する滝も、実は人為的造形といえる。)

 東照宮へ向かう道の途中に神橋(しんきょう)という朱塗りの橋が架かっている。これは日光開山の僧勝道がこの地を訪れ、川を渡れずに神仏に祈願したところ深沙王が現れ二匹の蛇を川に投げ入れると橋に変化したと伝えられている。変わっているのは、川に架かっているのに、片方が閉じられていて、渡ったあと元の場所に戻る仕組みである。渡りきらないけれどお金をとる。拝観料と言うべきか。

 間もなく輪王寺裏の駐車場に着く。
 ここからは堂者引きの案内で進む。堂者とは神社仏閣を連れ立って参拝する人を言う。この堂者を引率するという意で堂者引きといい、職業としては明暦元(1655)年、徳川幕府が定めたものである。
 私どもの堂者引きは柔和な風貌の御仁で、その話の口調やテンポに思わず引き込まれる。  
 輪王寺は、正式な名称を「日光山輪王寺(にっこうざんりんのうじ)」という。日光山内には、最古の二荒神社、東照宮、輪王寺の二社一寺が存在する。ただし、輪王寺という寺は存在しない。これは少し話がややこしくなる。これは、滋賀県比叡山の山上山下の寺を総合して延暦寺と言うのと同じで、日光山全体を統合していることを表す。ただ、残念なことに、筆者が訪問した2013年当時50年に一度の大改修にあたり、現在は巨大な覆いが被せられ、その表側に絵図による本堂が描かれている。

 輪王寺境内を抜けて東照宮の参道へ出る。
あたりは深い杉林によって、夏の日差しが遮れられ涼やかな風が通る。両側の石垣に苔が茂っている。やがて石鳥居が見える。この石鳥居に昇る石段は上に行くにつれて高さが低くなり、遠近法の原理で鳥居が遠くに見える仕組みになっている。
 ここから東照宮が始まる。


 そもそも東照宮の墓は家康の死後、その遺言による。死後朝廷から東照大権現の神号を受けて祀ったのが始まりである。当初は、現在「奥社」に見られるような質素な作りであったものを孫である家光が、当時の建築技術や幕府の威光を注ぎ込んで立て直した。寛永13(1636)年の「寛永の大造営」である。家康は、江戸の真北に位置する日光で、北極星を背に天下太平を守ると遺言した。その絢爛さは息をのむほどである。東照宮内の建造物には、江戸諸藩の贈答によるものが数多く見られるのは、おそらく中央集権制度での幕府の威光がもたらしたものであろう。
 例えば、石鳥居をくぐり左手に見える五重塔は小浜(若狭)藩主酒井忠勝が献納したものである。塔内部には、四層目から直径60㎝の心柱がつり下げられている。この心柱が地震の際揺れを最小限に防ぎ、塔の倒壊を防ぐという。

 余談となるが、石鳥居手前の左手に「ここは標高636m。東京スカイツリーと同じ高さです」との標識がある。この標識の存在は、奇しくも同じ標高にある五重塔とスカイツリーに共通する免震構造という点で符合する。二つの塔が約350年という時空を越えた現世に共存することの偶然さはどうであろう。

 表門をくぐると右手に下神庫、正面に中神庫、上神庫がある。総称を三神庫という。ここに毎年十月中旬に開催される百物揃千人行列の装束が納められている。この行事は、かつて家康の遺骨が静岡県久能山から、この日光まで運ばれた当時の行列を再現するものである。ちなみに昨年(平成25年)のこの行事は日光市民の約八百名が参加し盛大に行われたことを過日のテレビニュースで見た。
 上神庫妻面に象の彫刻がある。狩野探幽作の二頭の象は、毛が生えていたり、耳が小さかったりしている。これは実物の象を見たことが無い状況で、おそらく南方に生息する象という生き物について聞いたことを彫刻した物と思われる「想像の象」である。
 三神庫から振り返ると神厩舎がある。東照宮唯一の白木造りの建物は東照宮に仕える神馬が出勤する場所としての役割がある。この馬の健康を守るのが猿であるという言い伝えから、かの有名な「三猿」が見守る。いわゆる「見ザル、言わザル、聞かザル」の三猿であるが、これは計八つの彫刻のひとつに過ぎない。八つの彫刻はそれぞれ人の一生を描きながら生涯のありようを語る絵物語となっている。
 御水舎で手を清めて、日本で最初に造られた銅製の鳥居をくぐると右に鐘楼、左に鼓楼がある。この場所で振り返ると面白い物がある。いわゆる神社の狛犬が居る。居るが、どうも天空から飛び降りてきた直後のまま居る。東照宮を守るために、今まさに前足を地面につけて着地する瞬間でその動態を止めている。

 正面に豪華絢爛たる陽明門がある。
 ただ、筆者が訪問した平成26年8月時点で平成の大修理が行われていて、工事用の鉄骨の向こうに、無数の彫刻を見る。
 神輿舎についてはすでに述べた。ただ、天井の天女をのぞいてほしい。ここまでの造形を残した当時の美術には驚嘆する。
唐門を見る。というのも、この唐門は国賓レベルの者しか開かれない。幸い唐門は工事を終えたばかりである。黒漆の輝きもさることながら、透き通るような白木にも目を奪われる。寄せ木細工の昇竜、降竜もさることながら、門の左右に伸びる透塀は鳥や植物が描かれており見飽きることは無い。

 本社への参拝を済ませ、奥社へ向かう東回廊蟇で眠り猫を見上げる。この一見眠る猫は、向かって左手から見ると非常に柔和な寝顔に見え、正面から右手から見ると、今にも腰を沈めて襲いかかる表情に見える。これは「猫がのんびり眠っていられる平和な世の中」への願いか、あるいは「平時から戦時になる備え」であろうか。猫の足下には雀が遊ぶ。

 本地堂に入る。ここは、陽明門の手前にあるが、堂者引きの案内では最後となる。いわゆる「鳴竜」の天井画で知られる。薄暗い室内に入ると、広大な天井に巨大な竜が迎える。説明者が竜の頭の下で拍子木を鳴らすと、はっきりと音が共鳴するのが聞こえる。どうやら、床と天井との間で音が往復するときの共鳴であると思われるが、詳しくはわからない。かつては参拝者が手を鳴らして聞くこともできたようだが、余りの多さに共鳴音も実音もわからなくなって今の形式となったらしい。

 もう一度通過してきた道を戻る。陽明門前にある回り灯籠が目にとまる。オランダの東インド会社からの奉納品である。この回り灯籠には「徳川の葵の紋」があるが、これがちょうど本物を逆さまに描いているので「逆紋の回り灯籠」と呼ばれている。

 ふたたび石鳥居までくる。途中、巨大な杉の木に金物が結わえてあるのが見えた。堂者引きの説明によると避雷針だそうだ。栃木県は雷の発生率が極めて高い。そのため、樹齢の長い杉の巨木に落雷することが多く、落雷での倒木による建造物損壊を防ぐためでもあるという。

 石鳥居の向こうに伸びる玉砂利の道を眺めていると、ふと蝉の鳴き声が止み雨が降ってきた。



日本丸~みなとみらい

 横浜駅西口からさほど遠くは無いホテルの客室から窓際に立つと首都高速を走る車を間近に見下ろせる。防音ガラスのおかげで、音はそれほど気にならない。
 ホテルエントランスそばにある入口から降りて地下に入る。ダイアモンド地下街を通って横浜駅へ向かう。

 みなとみらい地区を最初に訪れる。朝は、まだ開店している店も少なく混雑はない。 地下鉄みなとみらい線に乗る。
 ホームは地下深く、近未来を思わせる金属を多用したデザインである。ほどなく、ステンレスボディの電車が来る。この路線は、北はそのまま東急東横線渋谷駅までつながっている。
 「みなとみらい」という住所表示は1993年に公募から選ばれたらしい。略称でMM21と呼ぶ場合もある。
 みなとみらい駅から地上に出るとビル群の谷間に出る。中でも際だって横浜ランドマークタワーが威容を誇っている。
 タワーのエレベーターは三菱電機製で、昇り速度は台北のビル101ができるまでは世界最速であった。時速四十五㎞を記録する。この速度は、実は東京スカイツリーよりも速く、現在でも日本最高速を誇る。ただ高さは、大阪あべのハルカスに抜かれてしまった。(平成26年)
 69階の展望フロア「スカイガーデン」の高さは273m。西は横浜港から、みなとみらい地区の全景。東には遙か富士山を望む。余談ながら筆者は高所が嫌いである。しかしながら、ここまで高くなると恐怖感が薄らぐ気がする。何というか、すべてが絵画のように見えるからだろうか。ランドマークタワー下層階は様々なショッピングゾーンとなっており、レストラン街も多い。

 外に出ると随分気温が上がってきた。
 ランドマークタワーのほぼ真下にある帆船日本丸を訪ねる。
 計四本のマストを持つこの瀟洒な帆船は1930(昭和5)年に進水した。その後練習船として太平洋航路を何度も往復した船体である。戦後は南太平洋に散らばる日本兵の遺骨収集にも従事した。1984(昭和59)年引退し現在地に係留されている。
 余談だが筆者が東京に居た頃、たまたまアルバイト先でHくんという友人がいた。このHくんの父上が当時日本丸の船長であった。時期的には引退直前の時期だと思われるが、ある休日、「面白い物を見せてやる」と言われて、港に連れて行かれた。(当時の係留先が定かで無い。たしか昔の東京商船大学(現東京海洋大学)あたりだと思われる。
 そこで目にしたのが総帆展帆(そうはんてんぱん)という作業であった。かけ声と共に船員たちがマストにとりつき昇り始める。目もくらむ高さまで昇りつつも白い帆を手際よく広げていく。まことに爽快な動きと言ってよく。およそ一時間の作業時間であったが見飽きることなく眺めていたことを覚えている。総帆展帆は今でもメンテナンスを兼ねて定期的に行われている。
 船内を見て回って、左舷側に降りる。少し離れて見上げると先ほどのランドマークタワーと日本丸の両方を視野に収める場所となっており、しばし、双方の対比を目に焼き付けた。


 JR桜木町駅まで動く歩道を使う。駅手前で左に折れて地上に出る。
汽車道というちょうど海を渡るような格好で作られた歩行者専用の道はみなとみらいの新港地区につながっている。

 潮風が心地よい。がしかし、真夏の日差しは容赦ない。
 ほどなく赤れんが倉庫群が見えてくる。
 かつて、欧米との貿易集積地としての横浜港の賑わいは大変なものであったろう。現在のようなコンテナ船では無く、荷物が巨大な木箱や、小麦などの穀倉は布袋で、それもおびただしい数が毎日陸揚げされ、別の船に乗せ替えられたであろう。
 1号館は大正時代、2号館は明治時代建築である。かつては、横浜駅からここまで鉄道線路が延びていた、それが先ほど歩いてきた汽車道である。1989(平成元)年に荷揚げ倉庫としての機能は無くなった。しばらく放置され、映画のロケなどに使われてきたが近年、洒落たショッピングとグルメが楽しめる観光スポットとなっている。
 埠頭のはずれにシーバス乗り場があり、ちょうど着岸した船に乗る。

山下公園~マリンタワー

 海風が暑気を幾分和らげている。
 シーバスは大桟橋を通り過ぎ右舷目前に氷川丸を見ながら大きく右へ舵をとる。赤れんが倉庫群から出発したこの船は、上面がガラス張りで開放的なつくりである。

 山下公園東側桟橋に着く。
 ここは関東大震災の復興事業として、震災で出た瓦礫などを使って海を埋め立て1930年に造られた。小田原付近を震央とする巨大地震は東京よりも震源に近い横浜に甚大な被害をもたらした。今は、芝生と庭園を配置した市民憩いの場所になっている。
 大桟橋に向かって歩いていると、膝を抱えた少女の像がある。童謡「赤い靴」の主人公がモデルとなった像である。かつては寒々とした漁村であった海浜は、ペリーが率いる太平洋艦隊の出現によって大きく変貌する。開港から百五十年。大きな歴史の節目をこの港町は経験してきた。
 このあたりは幕末には欧米各国の商館が多く立ち並び町を作っていたと思われる。当時オランダ語に堪能だった福沢諭吉は、腕試しにこの場所に来て英語の看板が読めず落胆した。当時は、英語が主流であったのだ。

 そんなことを考えながら、山下公園のベンチに腰をかけて情景を眺めてみる。
 山下公園から遠く正面に見える対岸に日産自動車の工場があり、その向こうに生麦という土地がある。ここで幕末、江戸から郷里へ戻る薩摩藩島津久光の行列に接触した英国人を、供回りの藩士が殺傷する事件が起きた。生麦事件という。尊王攘夷運動の高まりの中で起きたこの事件は、あろうことか薩英戦争を引き起こす。これは、こんにちでいうと鹿児島県とイギリス海軍が戦争を起こすことであり、とても考えられない。このことからも、当時の日本という国が国家では無く、徳川家が統治する多くの小国(藩)の集まりであったことがわかる。
 ついでながら、この生麦事件で負傷した英国人の怪我の手当てをしたのはアメリカ人医師ヘボンであり、この人の名は「ヘボン式ローマ字」として知られる。

 海から左に目を移すと、黒と白のコントラストがくっきりとした氷川丸がいる。この瀟洒な船の歴史は波瀾万丈である。昭和五年にシアトル航路用に建造された貨客船は、戦前はチャップリンなどの著名人が乗船するなど華々しい記録がある。しかし、戦時中は政府に徴用され海軍の病院船にもなり、終戦までに三回も触雷している。しかし、当時の大型船では唯一沈没を免れた船である。

 開港以来、横浜港は実に様々な文化を乾ききったスポンジに水を垂らすように受け入れてきた。
 日本最初の出来事や職業ができた「発祥の地」が実に多い。ホテル発祥の地、電信(電話)発祥の地、新聞発祥の地、近代街路樹発祥の地、日本写真の開祖。少し変わったモノには、ローマ字で「ZAN GIRI」と書かれた西洋理髪発祥の地というのもある。中華街しかり。外人墓地しかり。今も残る歴史的建造物はどれも重厚である。中でも「横浜三塔」といわれる西洋建築は見応えがある。大桟橋から近い順に、神奈川県庁本庁舎、交差点を隔ててある横浜税関。内陸側に移動して横浜市開港記念会館。これらは関東大震災以降再建されたものの構造物の持つ美しさがある。


 山下公園通りを渡り、しばらく歩くとホテルニューグランドという老舗ホテルがある。日本で最初にドリア、ナポリタン、プリンアラモードなど後に広く知られる料理を日本で最初に提供した。
 ニューグランドを過ぎてマリンタワーに立ち寄る。今から五十年前に開港百年を記念して建てられた。こんにちの高層建築に慣れた目には低く映るがエレベーターで展望室に上がると、山下公園を目前に港の全景を見渡せる。なかなかの絶景である。高さ106m。風が吹くと少し揺れるのがわかる。支配人は冠木(かぶき)さんという。極めて珍しい姓を問うと、「私の名前は東北に少しいます」という。あとで調べてわかったことだが、福島県二本松市に冠木という町がある。おそらく、この辺りのご先祖を持つ家系なのかも知れない。

 余談だがそもそも冠木というのは神社の鳥居の左右の柱を貫く横木のことを言う。冠木さんは大変気さくな方で、例えば、先ほどの風が吹くと揺れを感じたことも、
 「免震のためにわざと揺らしてます」
 といい。エレベータードアと建物の隙間が結構空いていて、下が見えてスリリングなことも楽しげに話してくれる。
 一階に降りてホールの壁面一杯にタイル画がある。山下公園に集う外国居留民が花火を見ている様子の絵がホールの片側にあり、もう片方には大きな客船と港の街並み広い空には雲と飛行機が描かれているものである。冠木さんが、
 「山下清の作品です。」という。
 驚いてよく見ると下に「山下清」の名前がある。タイル画ですので直接ここで作業したそうです。という。


元町・中華街
 

 筆者は、横浜という土地に特別な想いを持つ。横浜を想うとその海風が運ぶ異国の匂いが鼻腔を満たす心持ちがして仕方がない。
 かつて東京に住んでいた頃、休日には京浜東北線に乗って石川町で降りて山下公園まで歩いた。例えば、早朝の元町を歩いていると、ベージュのコットンパンツにパステル色のポロシャツの背筋のしゃんと伸びた老人が犬を散歩している姿を見るだけでも気分が高揚した。
 元町は、まず街並みがいい。空がすっきりしているのは電柱と電線が無いことにも関係がある。石畳の歩道を歩いて雑貨や洋品、輸入家具の店を見て回るだけでも楽しい。今回の旅でもその印象に変わりが無い。

 元町通りを山下公園に向かって歩く。
 ウチキパンという老舗パン店に立ち寄る。表通りから少し離れて立つこの店は、今でこそ近代的な建造物であるが明治21(1888)年創業である。当時の日本人にとってパン食は物珍しかった。史料によると、例えばフランスパンのように表面が固いパンは表皮を捨てて中身だけ食べるような風習があったらしい。ウチキパンの前身であるヨコハマベーカリーはより柔らかく表皮が薄いイギリスパン(現在の食パンに近い)の製造を始めて横浜のひとびとの人気を得るようになる
 再び元町通りに戻り喜久家というこれも老舗洋菓子店の角を曲がって中村川を渡ると別世界となる。

 朱雀門から中華街に入る。
 横浜中華街は、慶応2(1866)年の横浜新田慰留地から数えると150年弱の歴史をもつ。エリア内の中国人人口約6000人。店舗数500件以上。清朝時代からの華僑の町はまさに東アジア最大の中華街である。

 夕暮れ迫る中華街に明かりが点り出す。
 街全体の基調となる色は赤である。その赤に時に金色が飾られ、それがライトで鈍く反射している。中華饅頭や焼売、そしてなぜか最近は焼き栗の匂いが食欲を誘う。また、やたらと占いの店が多い。ガイドブックによると有名な占いの店もあるらしい。中華風水の系統を継ぐものかも知れない。

 中華料理は広東、上海、四川、北京の4つに分かれる。そのうち広東料理は飲茶などの小さな蒸籠に入った蒸し料理が有名である。最近は随分とビュッフェ方式のレストランが増えた。混み具合にもよるが修学旅行生の昼食に予算的にもいいかもしれない。もし、時間の余裕がないのなら店頭販売の「肉まん」を食べてみてもいいだろう。


 少し早めの夕食をとり、外に出ると陽はすっかり暮れていた。
 夜の中華街を歩く。外灯と色とりどりのネオンサインが昼の喧噪とは違う妖艶さを漂わせる。多くの家族連れ、仕事帰りのサラリーマンの表情も幾分上気している。


 朝暘門をくぐり、みなとみらい線の元町・中華街駅へ歩いている途中、遠くでズドンという大音響が鳴り響いた。

 山下公園付近の花火大会の開催日だそうだ。

 海風が陸風に変わったらしい。


【参考文献】
明治の札幌;札幌市教育委員会編
札幌歴史地図<明治編>;札幌市教育委員会
史說開拓判官島義勇伝;幸前 伸
さっぽろの昔話 明治編上;河野常吉
郷土史 元町北 大友亀太郎をおって;札幌市立元町北小学校
栃木県の歴史散歩;栃木県歴史散歩の会図説
鎌倉歴史散歩;佐藤 和彦 , 錦 昭江 (編集)
ブラタモリ8(横浜・横須賀);NHK出版
関東大震災; 吉村 昭
街道をゆく 神戸横浜散歩・芸備の道;司馬 遼太郎
街道をゆく 三浦半島記;司馬 遼太郎
胡蝶の夢;司馬 遼太郎
幕末新選組;池波 正太郎
こころ;夏目 漱石
ウチキパンHP;http://www.uchikipan.com/
日光観光協会HP; http://www.nikko-jp.org/index.shtml
横浜観光コンベンション・ビューロHP;       http://www.welcome.city.yokohama.jp/ja/
日本郵船博物館・日本郵船氷川丸HP; http://www.nyk.com/rekishi/

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