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小説|敬虔な共有と吐き出される共感

 口で言うほどには、感動を共有することは簡単ではない。人が同じ小説、映画、音楽、自然の絶景を体験するとき、一緒に体験する仲間とは、ほとんどと言っていいほど、ぼくらは何も共有していない。それは恐ろしいと言っていいほどだ。(感動の共有を共感と称することは、あまりに端的すぎる)。

 ある日、ぼくと彼女と映画を見ていた。ぼくらは互いに「今の映画、おもしろかった」「あのシーンは、本当によかった」「そうだね」と口にした。確かに、ふたりはおなじシーンで感動していた。けれど、ぼくらはまったく別のものをそこに見ていた。
 ぼくらが見たものは、センチメンタルな少年少女たちの成長と友情と性についての二時間の映画だった。ぼくはそんな青春時代を送ってはいない一方、彼女はぼく以外の男の子とキスをしていたと明言しているし、もしかしたらぼくに黙っているだけでそれ以上のことをしたかもしれない。経験の差からいっても、青春映画がぼくらに語りかけるものは同じではなく、ぼくの感動は彼女の感動と等しいことはない。
 別の日、ふたりで旅行をしたとき、秋空の下でしたテニスも、列車のひとつの車窓から見た紅葉も、夜に食べた秋の味覚の戻り鰹と栗ご飯も、何一つ、ぼくと彼女は共有してなんていない。ぼくらはただ同じ時間、同じ場所にいただけだ。そこにいただけでは、人は何も共有などしてはいないのだ。
 このことに気付いたとき、ぼくはずいぶん人間というものを疑った。いったい何を以て人は他人の心に触れることができるのかと考え、それは不可能だと思った。
 そしてそれはひとつの悲劇を意味する。他人に共感できないと言うことは、つまり、ぼくは恋人面をしていながら、彼女のことを何一つ理解していないということだ。
 しばらくぼくは暗い顔をしていたのだろう。ある日、彼女がぼくにどうして浮かない顔をしているのかと聞いた。それはデートをしたあとのことで、久しぶりにふたりで裸になれたのにぼくがまったく勃起できずにいた夜だった。
 不甲斐ないぼくは体調の悪さを言い訳にしようとしたけれど、彼女にはぼくの異常などとうに伝わっていた。それでぼくは、彼女に思っているすべてを話した。
「それは、物事の一面を見てるだけ」
 彼女は言う。
「もし同じ体験をして、その感動をすべてみんなで共有するような世界があったとしたら、その世界では誰ひとりとして『自分』を持てないんじゃない? みんな同じだったら、意見も個人も存在しない。それは個人じゃなくて、たとえば……右から左に電子を伝達する記憶媒体みたいな? きみはそれを求めているの?」
 ぼくはすぐに「そんなことはない」と答えた。
「そうだよね、そうだよ。人生なんて、謎がいっぱいあった方が楽しいもんだよ。そしてそれを解き明かすのがまた、楽しいんだ。この前の旅行、楽しかったね。鉄橋から川を見下ろしたときは背筋がひゅっとしたし、夕ご飯の薄っぺらいマツタケもおもしろかった。でも、私が何を考えているのか、これまでそばにいながら考えてもいなかったのかい?」
 やっぱり、ぼくらは違うものを見ているんだと教えられた。
 ぼくは素直に、彼女が体験した別の世界を想像した。鉄橋から見下ろした景色も、ペラペラのマツタケも思い出せるけれど、感情は動かない。
 彼女はぼくの気持ちを察したのだろうか、こう言った。
「感動って、確かに自分自身にしかわからないものだよ。こどもの頃に野原を走ったときの爽快感なんて、絶対、誰とも共有できない。でも、想像はできるんだよね」
「体験していない、存在もしていない感動について、私たちがちょっとだけでも、それを実在するものとして考える。すると、存在しないはずの感動から、私たちは何かを受け取ることができる。あの人はこれをどんな風によろこんだんだろう、どんな気持ちで泣いたんだろうって。そうやって、自分には存在しないものを、存在すると扱うことで、やっと体験についての本当の共有が始まる」
「共有できるのか」
 そうじゃないよ、と彼女は否定した。
「共有は始まっても、終わりなんてない。でないと、感動と共有のディストピアになっちゃう」
 ――感動と共有のディストピア。
 理性が支配した最悪の世界をディストピアと呼ぶのなら、感動の共有を強制させる世界もまたディストピアなのだろうか。
「そんな世界は怖いな」
 ぼくは彼女の身体に再び触れ、セックスをやり直した。ぼくは勃起できた。
 彼女は挿入を受け入れた。声を出すまいとしていたけれど、それでも喉の奥から埋もれたような声が漏れてくる。汗が滴り、ぼくらの身体にぴとぴとと音を立てた。
 ぼくは彼女の気持ちを想像した。ぼくは彼女のように感じることはできず、感覚は存在しないものだけれど、存在するものとして扱って、彼女のこころを共有しようとした。
 ――決してできない感動の共有。単に同じ時間と場所にいただけでは不十分、同じ体験をしたとしても不十分。
 彼女と湿る手を握り合ったとき、ぼくは何か少しだけ共有できたような気がした。
 それも束の間、ぼくが彼女の中で一気に果ててしまうと、すべての共有は失われた。
 感動の共有とはそのようなものだ。

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