memento mori

以下、最近の日常を踏まえて考えた事など。先に宣言しておきますが、私は佐藤優と同じく「立場設定を認識してから議論する派」です。つまり、相手の思想の根本的な部分を変えようとするのではなく、自分とは違う見方をしていることをキッチリ把握して着地点を探すべきで、相手の思想がどんなに倫理的に間違っているように感じても、それはそれでいったん受け止めるという考え方です。この考え方をする人が意外と周りに少なくて困っているのですが。兎も角、そういう考え方をしているので、「あなたの論点は倫理的に間違っている」という喧嘩は買いません。放っといて下さい。後、最近、こういった哲学的な事を考える場合、架空の息子に説明するのをイメージしながらだとまとめ易い事が判明!説明口調でわかり易く喋ろうとするので、整理し易いんでしょう。架空の息子はホントに架空です。結婚もしていないし、子供もいない独身貴族ですんで。(勿論、年齢が年齢なので、「なんで結婚せんのん?」合奏は弦楽四重奏どころか、マーラーの交響曲8番並です。意味が分からない人はウィキペディアで調べてみるといい。必ず私に同情出来るはずだ。)


1 carpe diem

人生の殆どの事はやり直しがきくと思う。生まれてくる事は確かにやり直しがきかないが、「やり直したい」というのは「私としてもう一度やり直したい」のであって、全く別の自我を持ちたい訳ではないので、生まれ直す必要はない。生まれ直す場合は0からの再生になるので、多分私は私でなくなる。第一、生まれるところからやり直したい人はまずいないだろうて。(あ、親を変えたい人は生まれ直した方がいいかもね。)多分「やり直したい」の原因の原因の原因の・・・と考えていった結果、生まれたところに行き着くだけで、実際はそんなに前まで戻らなくてもなんとかなる。一般的にやり直したいのは受験だったり、就活だったり、恋愛だったりするんだろうけど、この辺の事はソノ気になって努力すれば数年がかりでやり直しが可能な仕組みになっていると思う。同じ大学を受け直すとかしなくても、別経路で同等のものを手に入れる事が出来るだろうし、案外そっちの方が結果としてより良い可能性も高い。勿論、やり直しには意志の力が必要とされるが、自分の人生を思い通りにすることは自分にしか出来ないのだから、そこは根性を出すところだと思う。その根性さえ出せないのならば、やり直しても意味はない。

なので、人生で唯一やり直しがきかないのは死ぬ事のみ。死ぬ事だけはどんなに失敗しても、私として死に直すことはできない。 ならば如何に良く死ぬかを目指して人生を生きるべきではないだろうか、と思う。ただ、「後悔が無いように」というが、人生は短い割に人の欲望は底無しなので、本当に後悔無しで死ぬ人はいまい。絶対に「あー、トルコ旅行したかった」とか「家を掃除しておくべきだった」とか「一つくらい善行すべきだった」とか小さな後悔から大きな後悔まで色々思い出すはず。ま、即死の場合はそんな事考えている暇無いんでしょうけど・・・兎も角、「後悔が無いように」というのは無理に決まっているので、後悔ありきで死ぬしかない。ならばどうするか。「いつ死んでも良い」という覚悟を持つしかないんではなかろうか。どんなに健康でも、若くても、一寸先は闇。自ら死を決意しない限り、死の瞬間を選ぶ事はまずできない。それゆえに、memento mori 死を想え。


2 ubi sunt

ここ数年、個人的な取り組みとして私の世界の再構築を行っている。具体的に何をしているかと言えば、哲学・宗教・歴史を勉強しながら、この世界について考えているだけなんですが・・・今のところ、うっすらと「なんか超越したもんがある(=所謂「神」とか「理性」とか呼ばれるモノ)」「死後の世界はない」という認識にたどり着いた状態で、全然体系化されていないので、なんとか死ぬ前までには纏めあげたい。しかし、纏めたら纏めたですっかり満足して、人生を止めてしまう可能性も非常に高いので 、どうしたものか。(実際、数年前に「あともう少しで悟れる!」という状態に駅のホームでなった事がある。幸いというかなんというか、悟りきれなかったため現在も生きているが、「あそこで悟ったら電車にダイブしてたんじゃなかろうか」と今でも自分で疑っている。)

こんな考えなので、葬式とか結局生き残った人(の自己満足)向けなんだよな、と思ってしまう。人間は誰だって死ぬし、平均年齢やら世間一般の常識やらと比べて死ぬのに早い遅いはあるだろうけれど、それも全て予定調和というか運命というか、世間でいう「早い」も、人間を超越したものが治めるこの世界の中では、別に早くも何ともないんだろう。この地球の上でさえ、日本の若死には、他の国では長寿なのかも知れないし。死ほど平等なものもない。死んだ人間はなにも考えない。葬式の宗派が違おうと、自分の嫌いな演出(家族からの手紙の朗読とか、「千の風になって」が流れるとか)をされても、嫌いな花を棺桶に入れられても、生前の愛用品を棺桶に入れられても、誰が泣こうと、誰が泣くまいと、死んだ人間には関係ないのだ。ので、葬式の本質は生者のための儀式であり、生者が一番スッキリする方法で行えばよい。葬式の場で死に行く者に出来る事は、精々参列者に自分の最後の印象を植え付ける事だ。なお、大抵は「死んだ人の好きだったモノを一緒に」という発想が働く。それが「死んだ人を想う」その意思表示になり、それこそが葬式の場で、他人の目にとって求められる姿勢だからだ。故に、死に行く人は葬式を行う側がやり易いように「この音楽をかけろ」だとか「菊の花はいれてくれるな。白薔薇にしろ」とか指示を事前に出しておくべき。大丈夫、それが生者の趣味でなければ無視されるだけだ。死人に口無し。何も言えない。

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