正しさと分かりやすさ


塩見孝也の本を読み終わった。この冬は集中的に連合赤軍の本を読んだので、読みやすいかと思ったんだが、全然読みやすくなかったのである。まず、登場人物が多い。連合赤軍として活動した赤軍派の人々(森、坂東、植垣、青砥、山田、などなど)については、今までなんども話に出てきたのでわかる。が、ブントの方になるともう、誰が誰だかさっぱりわからない。しかも分裂したりくっついたり。中核派と革マル派って、連合赤軍からどの辺までさかのぼって、下っていけばたどり着くんでしょうねー?こんな感じである。新しい名前が出たとたん「えーっと、どちら様?あ、すでに出ていらっしゃってた?そいつは失礼・・・」こんな感じじゃ、理解できるものも理解できなくなってしまう。更に、言っていることも意味不明なんである。「日付+闘争名」という名付け方で各闘争が呼ばれているのは、まぁわかる。が、途中から日付のみにしないでおくれ・・・「7・6の後に〜」って言われても「7・6」が何を意味しているのか瞬時に出てこないのだ。

さらにさらに、その哲学、それも読めども読めども理解できる気がしない。補足で付いていた「過渡期世界論」の抜粋を読みながら、「私の理解力が相当足りていないのであろうか?いや、そんなはずはない・・・いままで、それなりに頭のいい子で生きてきたもん!じゃ、塩見孝也がものすごく頭が良いのか?この人、どうのこうの言って京大だもんな・・・うぅ、やっぱり私はバカなのか・・・」とか良く分からない方向へ脱線して考え込んでしまった。挙げ句の果てに「こいつらに5文字以上の漢字熟語を禁ず、って言ったら、もう少し理解しやすくなるかしら?」と小学生のような考えが頭に浮かぶ次第。最終的には真面目に理解するのを諦めて、目で文字を追ってお終いにしました。

で、こういう理論と、池田晶子の文章を交互に読んでいて思ったんですが、正しいことはわかりやすい、のかもしれない。正しいことはその絶対的な正しさゆえに、シンプルに説明できるのではないか?逆に正しくないことは、正しく見せるために言葉で装飾しているのでは?もちろん、左派の考え方が全面的に間違っているというわけではなく、正しくない小難しい説明なしに、わかりやすく正しいことを説明できたはずだと思う。いや、もしかするとわかりやすさは正しさのバロメーターではなく、正しさに対する自信のバロメーターかもしれない。「これは正しい!」と思う場合、そこに小難しい説明はいらない。「人は善く生きるべきだ」というのを正しいと思うからこそ、その一言で済ますことができるけれども、そうでなければ「人間は社会的動物であり、それゆえに社会における人間関係を築くことがウンタラアータラ・・・」と説明して、自分の正しさを証明しようとするのかも。

何れにしても、私には「過渡期世界論」さっぱりわかりませんでした。誰かに解説して欲しいです、ほんと。そして、こうやって考えてみると、本当にわかりやすい文章ってのは少ないですね。特にわかりにくかったのは、ハンナ・アレントの「人間の条件」でしょ、バートランド・ラッセルの「哲学入門」でしょ・・・って、カウントしていったら、やっぱり自分が愚かなだけだと認識しました。チェッ。頑張ろう・・・


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