スクールロイヤーは結局誰の味方なのか

学校からの相談案件を数百件はこなしたスクールロイヤーもどきの一つの答え。

スクールロイヤーは、誰かの代理人なのか、裁定者なのか。

スクールロイヤー制度について語られるときに、スクールロイヤーはどんな立場で関わるべきかという議論がある。結局は学校の味方で、何か都合の悪いことを隠されたりしてしまうのではないか、クレーマー扱いが増え、子供や保護者の立場がむしろ弱くなってしまうのではないのか、といった意見や、むしろ裁判官みたいにトラブルに対して話を聞いて何かジャッジをしてくれる形になるのか、それは弁護士がきちんとできるのか、と言った意見が出たりする。

実際のところはどんな感じなの?と、いわゆるスクールロイヤーの活躍に関する新聞記事を読んでみても、今のところその活躍のほとんどは、そういった個別の事件に踏み込んだ対応をするというより、第三者的にひとまず助言したり、子どもたちに授業する形のようである。そもそもそういった議論が問題になるところにはあまり至ってないみたい。

とてもニッチな一つのケース

わたしの場合の話。前提として、自分は特定の学校ではなく教育委員会の一職員(主にトラブルシューター)として働いていて、これまでの仕事でも教育委員会から派遣される形で、学校の色々な事案の対応をしてきた。対応件数はまぁこれまでで数百件はある。そしてその中で、わたし自身が保護者と直接会ってお話ししたことも何回もある。

事案に応じて関わり方は正直何パターンかあるのだけど、これまでの関わり方を振り返って、自分の基本的なスタンスはどんな感じかと聞かれれば、

保護者の代理人では絶対になく、子どもの代理人でもなさそう。とはいえ、学校の代理人ともいえないことが多い。感覚としては、学校対応を検証し、是正や後押しをする上司のような存在。

という感じかなと思っている。伝わるだろうかこのニュアンス。少し分解して話そう。

全ての起点は「その子の最善の利益のために」

わたしが個別事案に対応するときの絶対のルールはここにつきる。子ども関係に携わる弁護士からすれば「こんなの当たり前やん」というフレーズなのだけど。

最善の利益の模索

その子の最善の利益はなんなのか、というのは,正直めちゃくちゃ難しい。学校の見解、本人の思い、保護者の考え、福祉的心理的な意見とか色々参考にして、うんうん考えながら一個人、一法律家としての意見を毎回捻り出している。とはいえ、このあたりの判断行為は、そもそも法律専門職の領域を超えている。それにここは教育判断に深く関わることなので、最終的な見解は、教育委員会としての判断をお願いし、その一メンバーとして好きに意見を述べさせてもらい、一緒に議論をさせてもらっている。

その子の最善の利益に向けた対応は、学校としても最善の対応だ。

とはいえ、幸運なことに、そうやってうんうん考えた、私の意見と、教育委員会としての最終的な意見が食い違うことは実はほとんどない。真っ向から否定されたのは数百件の相談の中で2、3件くらいな気がする。さらに、教育委員会の考えと、学校の見解が大きく変わることもほとんどない。それぞれ別個独立に判断はするのだけど、私、教育委員会、学校の3者は同じ方向を向いてスタートしてることがほとんどだ。

まぁこれってそんな不自然な話でもなく、学校が考える指導や対応の目的、思いというのはやはり「この子の将来や幸せのために」から始まるので、当然、そんな的外れな学校対応には滅多にならない。学校は、その子が健全に、幸せに育つために何が必要か考え、実践するのが仕事であり存在意義である。だから、それぞれがその職務を誠実に果たせば、ある程度足並みが揃うことは、本来当たり前なのだ。

そんなわけで結果的に足並みが揃うことがほとんどで、私が学校と初めからバチバチ意見対立することは滅多にない。0ではないけどね。

保護者の見解だから、子どもの要望だからと迎合はしていない。

学校の代理人とはいえない理由とまったくパラレルな話だけど、私は私なりに独自に価値判断をするので、子ども自身の要望、保護者の見解、保護者の思うその子の最善の利益というのは参考にするけれども、考えなしに乗っかることも、その方針に盲目的に従うこともしていない。結果的に子どもの要望を叶えるべきなら叶えるし、できないこと、すべきでないことならその説明をする。私(教育委員会)の見解が,保護者の方針と同じで、学校の方針と異なれば学校対応を是正するし、逆なら保護者に学校の思いを丁寧に説明する。シンプルに整理すればそんなことをやっているのだ。

裁判官との一番の違いは、白黒つけるのではなく、学校と伴走して関係調整をしていくところ。

そしたら裁判官的な立場じゃないのか、と言われそうだけど、裁判官のような第三者的な立場に徹しているわけではなく、学校とはもう少し有機的に関わっているというか、切っても切れない繋がりみたいなのがある。あなたの方針は間違ってないけど、ここのところは問題じゃなかった?とか、たしかにここは謝る必要ないけど、この点はどう思うのよ?みたいな整理、働きかけはやる。あと、場合によってはこれは学校レベルではなく、教育委員会の体制の問題だ、として代わりに謝ることもある。裁判で裁判官が謝るなんてことはまずない。

なので、私は自分の立場については、完全な第三者というよりかは、上司・先輩が部下・後輩を叱ったり、守ったりするような感覚に非常に近いものを感じている。厳しくいう時もあるけど、それは結局、教育を担う仲間として、学校を想ってのことである。そして、上として謝ったり叱ったり、改めて説明したりしてケジメをつけさせ、学校と子ども、保護者の関係をリセット&リスタートさせるところまで伴走するのだ。

目的は正しくても、結構謝ることになる学校対応

ちなみに、先の通り学校の方針や思い、やっていたことが概ね問題ないとしても、学校が謝るケースはわりかし多い。

これは「謝っちゃえ謝っちゃえ文化」に倣って、、、なんてことではけしてなく、保護者や子どもの不満の声を聞けば大体謝るべきところは見つかるものだ。

実際の経験を元にすると、充分な説明を尽くしていたのか、意見丁寧に聞いたか、小さな要望への答えを有耶無耶にしていないか、何か伝えるときに語弊があったり、失礼な伝え方をしていないかといった点のどこかで大体エラーが見つかっている。そして、大体学校はその辺りを謝る形にはなっている。

素晴らしい目的を掲げていると、なんかその正当性に酔ってしまうというか、手段の選択をする際に脇が甘くなってしまう。というのは、学校の先生に限らず人間誰しもあることのような気がするけど、先生たちはせっかく頑張ってるんだしプロなんだから、よくよくそこんところ気をつけてよねー、と対応するたびつくづく思う。丁寧な対応が本当に大事だってことは、学校現場もよくよくわかっておいてほしいな。

教育委員会付きのスクールロイヤーもどきのメリットかもね

こうやって書きながら整理してみて思ったけど,自分がこういったスタンスで望めているのは、教育委員会の一員という立場にいるからこそ、なのかもしれない。

いわゆる、たまに相談に乗ります、何かあったら駆けつけます。というフワフワしたスタンスだと、上司的なアプローチは難しい気がするなー。

まぁあくまでニッチな一つの場合ということで。なんにせよ、自分のようなスタンス、関わり方が学校でのトラブル解決に有用だってことは、実際いろんなトラブルが無事解決できてることから十分言えると思います。

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