ゲーテ・シュタイナー的自然科学者としての私、その2

■生物教師時代(1978~85年)

千葉県市川市の県立高校で生物教師として教え始めましたが、同僚であり先輩である理科教師の皆さんには多くを学びました。どの先生も実験、実習を大切にされ、その準備には多くの労力を投入していました。父と同世代だった同僚の生物科Ni先生からは、ウミホタルやウニの採集に同行させていただくなど、多くを教えていただきました。どの先生もその分野が「好き」、いわば半分オタクでした。(ウミホタルの画像、愛知大学からお借りしました。)

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一つの重要な転機はアパートの大家さんとの出会いでした。仕事は接骨医(柔道整復師)でしたが、医学部卒業でした。奥さんのお話では、国家試験準備中に先代が亡くなり、急遽接骨院を継ぐことになり医師は断念したとのことでした。そのO先生は、整形外科で治せない怪我を治すことができましたし、それを実証するケースを私自身いくつも体験しています。また、西洋医学とは異なる西式健康法を実践されていて、実際に効果があることも体験し、私の中に「アカデミズムだけが真実ではない」という思いが生じたのです。西式を忠実に守っているわけではありませんけれど、布団の上ではなく板の上に寝てすでに40年以上、枕もかなり過激な木製です。画像の細い部分に頸を乗せます。

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■シュタイナー教育との出会い

通常の自然科学に対する疑問が少しずつ強くなっていくのと並行して、1980年頃(26歳)に子安美知子著の『ミュンヘンの中学生』『ミュンヘンの小学生』と出会いました。当時はこれらの本が起爆剤になって、シュタイナー教育への期待が各地でかなり高まりました。

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そうしたこともあって1981年の秋からは新宿朝日カルチャーセンターで始まったオイリュトミー・クラスに毎週水曜日に通うようになりました。住友ビル48階のフロアで50人以上の人間が動きまわっていました。その様子は「オイリュトミーとは狭い空間で人をよけながら動く芸術」とも言えました。そして、その後そのクラスからは10名以上がドイツのシュタイナー関係養成施設に留学したのです。

私は千葉県立高校の生物科教諭としてそれなりに工夫をして授業をしていました。「食べられる定期試験」はかなり評判で、他校にも噂が流れたようでした。生徒にミカンを1つずつ配り、そのミカンの皮を観察するというのが試験だったのです。観察対象は皮ですから、果実は食べてよかったのです。

それでも「現象のメカニズムを解明する」ということだけを目標とする現代自然科学の考え方が本当に正しいのかという疑問はますます大きくなり、とうとう1985年8月には自然科学を諦め、ミュンヘンのオイリュトミー学校に留学したのです。しかし、それは波乱の始まりでした。半年後の1986年2月19日には当時の1年生からは最初の強制退学者になってしまいました。いろいろ模索して、語学学校に行くまでの間の4月26日にはチェルノヴィル原発の事故でヨーロッパ全土に降った放射能を浴びることにもなってしまいました。

しかしその後、フライブルクで語学を学び、翌1987年3月にはドルナッハでボッケミュール先生の指導の元、自然科学研究コースに参加したのです。自然科学セクションの建物は、第一ゲーテアヌム時代から残るグラス・ハウスでした。北側(反対側)に大きな窓があり、そこからの光で作品を確認しながらステンドグラスを作った建物です。

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30日連続投稿を目指して、少しずつ書いております。

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