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日記 2020年7月11日

うーん、ほんとになんもない一日だった。
今日は寝て、動画見て、飯食って、動画見て、寝るだけだった。

DIOの声はゲーム版もOVA版もアニメ版も好き。
ゲーム版が一番好き。

何も書くことがないので、今までいろんな人が言ってきたであろう、「無駄は無駄じゃない」を俺なりに考えました。

家族との距離感

両親との距離感はこれでいいのかなとぼんやり思っていたが、お互いに過剰な干渉をし合わない距離感が最近できつつあるためか、そこまで気にならなくなった。

まあ、叱られなくなったというのは、自律の度合いを自ら意識するべきだという暗に示された家族の態度なんだろう。

ただ、中身が幼稚で、叱られることに耐性がついてないのは、結構致命的な気がする。

働いていくうえで、生活の諸所に気を配り、ただ怠惰を貪るのではなく、やるべきことの順序立てをしながら生きていくことが、暗に求められているのだ。

なぜ、それが必要なのかというと、おそらく、最終的には『無駄な時間』という自分にとって最高の価値を持つ時間を創出するためなのだと思う。

無駄であるということ

余暇という最大の無駄を作るためには、できる限り生活上の無駄を減らすこと。これが最も重要なのだ。

もとから、無駄を無駄と捉えないで、自己投資という形に割り振ってしまうと、もはやそれは人生が余裕のないキッツキツの『義務』というゲームになってしまう。

無駄であることそのものを否定しだすと、無駄の意味を求めてしまって、自分の価値肯定に時間がかかる。

それならばいっそ、生活において無用な怠惰をそぎ落とし、最終的に価値を持つ無駄の時間を増やしていくのがいいような気がする、という話だ。

と、思ったけれどもそんなことはない。
なぜなら、作業や、仕事の合間に存在する無駄に、ふとした瞬間価値を見出すこともあるのだから、それを否定するようなことも無駄といえるのかもしれない。

結局、時と場合によるけど、無駄をそぎ落としていくということ全般を奨励する言説に、俺は首をかしげる。
なぜなら、無駄という多様性の余裕、つまり、一直線でない寄り道の存在を許容しない社会が、人間にとって本来的に住みよい社会であるか?ということなのだ。

しかし、無駄をそぎ落とすことが必要になる場面や、無駄があることでかえって害になることだってあるし、無駄をそぎ落とすべきという言説は多様性と、必然性の要請により、全く消え去るべき考え方ではない。

だが、効率を重視して無駄をそぎ落としていけばいくほど、人間にとって多様性を生む素地たるものが失われていく気がしてならないのだ。

こういう考えても無意味なことを考える時間が、どうしても愛おしくてたまらないという、ただそれだけなのかもしれないが。

無駄は必要

無駄は人生において必要なのだ。

無駄のない人生とはどういうことか?
簡潔に言えばそれは、①『生まれないこと』だ。

生きるということそのものが、本来無駄の集合体なのだ。

だが、これだけだと、「詭弁だ」とか「ばかばかしい」とか「うんち食べたい」とか言い出す奴もいるだろうから、別の解釈もできるだろう。

無駄のない人生とは、②『人格を持たず、ただ機械的に、生存に必要な業務(この場合の業務は仕事だけでない、行動一般にかかるものである)を行い続け、その生存に必要性がなくなった時点で人生を終えること』である。

論を俟たないが、上記のような人生は遂行不可能だ。

なぜなら、①この世界は必然的に生物として少なくとも発生した人々の集合体だから、②生存は必要不必要の議論ではないし、外部的に見れば人格はあるように見える人々が社会を作り上げ、かつ、生存に必要なこと以外も行うことは誰であっても何であっても妨げ得るものでないからである。

人類が、その生誕から、文化などという心底無駄なものを生み出したのは、無駄であることを面白いと思った人類が少なからずいたからなのだ。

芸術・学問・コメディ・思想・文芸・食事・・・。
本質的に言えば、これら一切のものは不要だ。無駄だ。
だからこそ、その各人それぞれに異なった揺らぎが、面白いと思われるのだ。
どうせ死ぬんだ。無駄に生きよう。明日死ぬなら、その時、俺のやりたい無駄をする。

さようなら。
また明日。

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