「――もうこんなことは終りにしよう――」、表現文化史から紐解く“私的”「鬼滅の刃」考

――自分自身の鼻持ち為らぬ悪意に気付く時、
その悪意こそが自分自身を運動せしめるダイナモであると思い至る時、
人は死を選ぶべきなのであろうか――、


巷では「鬼滅の刃」とう少年漫画が流行をし、世間を賑わしめているそうだ。
鬼とは辿れば中華圏に於ける、幽霊‐悪霊を示す名辞であった。
時の朝廷は、これを巧みに歪曲せしめた。
「まつろはぬ民」=「鬼」、と謂う構図の誕生がそこには、ある。

人が鬼に為る、鬼は人に返ることはない、
鬼は如何なる理由があろうとも討伐‐殺害されねばならぬ、
――例えば断腸の念を以て――。
何処か、違和を覚える、余にシンプル過ぎる構図に。

現実とは、善人ですらも過ちを冒し、復、悪人が慈善家の貌を持つ、
その様に複雑な、場所である、と――その逆も復侭あることではあるが――、
私個人は思う。
人と鬼とを隔てる物差とは相対的なものであり、
それが絶対化される時、時代の権勢の、恣意が働く余地が生まれる。

挙げるまでもないが、「道成寺」「鉄輪」「葵上」「安達原」等、
鬼を巡る謡曲、物語、は数多、伝統芸能の俎上に連綿と継承をされている。
概ねは、仏法僧の念仏、調伏に遭い、鎮められ、或は逃れ、語りは了る。
而して、
略総ての物語、説話に於いて「討伐」ならぬ「調伏」という概念、
表現が施されている事の意味を、私個人は立ち止まり、考えて仕舞う。

正直に申し上げる、
惨殺の心地良さを正当化をした、挙句、
御涙頂戴の爲、鬼へと取って附けられた様な、
来歴等に、私は倦厭を懐かざるを得ない。
私個人、嫌いな言葉ではあるが、
「感動ポルノ」とその流行現象に、果して違いはあるのであろうか。

人は皆、複雑、不条理を嫌う者と知る。
だが現実世界、現実社会とはそれらの綜合体であるのではないのか。
人間の狭量に理解を齎す論理的一貫性や、簡潔な条理などは、
それこそ絵空事、夢物語に過ぎない、と私個人は、考える。

単純な構図に慣れて仕舞うと、自己省察の時間や、
善悪の善悪たる由縁が、「立場」という、
不確かな背骨に支えられていることをつい、忘れがちになる。
それは誰でも同じなのかも知れないが、
自らを戒め乍ら、覚束無くも問いを、提起をさせて頂いた、次第である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?