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スイス紀行 5.

St. Moritz (Segantini Museum)

ジョバンニ・セガンティーニはイタリア人(厳密に言えば彼はイタリア北部の生まれですが無国籍でした)でスイス山岳地帯の風景を数多く描いた画家です。絵画というと、私はブリューゲルやヒエロニムス・ボスなど北方ルネサンス期の画家を偏愛しているのですが、19世紀を生きたセガンティーニはその唯一の例外です。私は20代の頃からこの画家の絵が好きで、20年前にスイス東南端のエンガディン地方まで遥々旅した理由の一つは、サン・モリッツにあるセガンティーニ美術館を訪れるためでした(もう一つの理由はこの地方の山のトレッキングです。この頃私は毎年のようにスイスに出かけ、あちこちの山を1人で1日中歩き回っていました)。

今回、久しぶりにエンガディン地方に滞在することを決めた時、真っ先にセガンティーニ美術館を予定に組み入れ、そこに到着した翌日に訪れました。

館内は撮影可だったのですが、今になってみると私は不思議とそこで写真を撮っていませんでした。絵画を見るのに夢中だったのだと思います。しかし、『Vergehen(消滅)』というタイトルがついた絵の写真だけは忘れずにフィルムで撮影しました。私が最も見たかった絵だからです。

この絵は馬橇へ乗せるべく家から運び出された柩を、3人の人物が見送る場面を描いています。新田次郎はその著書『アルプスの谷 アルプスの村』(新潮文庫)において、この絵画を「思わず声を発したくなるほど暗さに満ちた絵」と書いていますが、果たしてそうでしょうか。私には、死者の魂が冬の透明な光に明るく包まれた雲に乗り、地平線の彼方に去って行くことが示唆されているように思えます。雲の輝くような白さと柔らかな形が、冷たい悲しみの中にあっても、微かな慰めを与えているような気がするのです。別れを描いた悲しい絵ですが、私は暗い絵だとは思いません。

20年前にこの絵画と向かった時も同じ印象を得ました。その後、新田次郎の本を読んだ時は、私のその時の「若さ」がこの絵画の暗さを読み取れなかったのかとも考えましたが、やはり私と新田次郎は根本的に違う見方をしたようです。私は、人が絵画を見る時、多かれ少なかれ自分の内面を反映させて見るのではないかと考えています。20世紀初頭信州で生まれ、山岳地帯の厳しさを身を持って感じて生きてきた新田次郎と、季節の良い時期に旅行客として山岳地帯と接した経験しかない私では、やはり絵画を見る目の土台が異なっているように感じました。

ところで、余談になりますが、私が好きなセガンティーニの絵画には、上述の『Vergehen』と並び『Mittag in den Alpen(アルプスの昼)』という絵画があります。このに描かれている女性。長年密かに「私に似ている」と思っていたのですが、直接この絵を見た夫も、この女性は私にソックリだと言います。…そう、つまり私の顔はこんな顔をしているのです。

「そのうち、アイコンをこの女性に変えようかなあ…」などと考えたりする今日この頃なのでありました。