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診断書

1月初め、突然首が痛くなりました。

最初は、単なる「寝違え」だと思っていたのですが、その後1ヶ月を経て良くなるどころかジワジワとひどくなるばかり。ついに昨日は全く下を向くことができなくなり、痛み止めを飲んでも効き目がないことから、医者に行くことにしました。ドイツの医者は日本の歯医者のようにどこも完全予約制なのですが、幸いいつもお世話になっている家庭医は予約なしに受診できる時間帯を設けているので、その時間に行くことにしました。待つこと2時間、ようやく受診できました。予想したとおり首の筋肉の凝りだそうです。本当は理学療法を受けたほうが良いのですが、オミクロン絶賛感染拡大中の現在は、なんと、どこも予約4週間待ちとのこと。たぶん、理学療法士の人数不足(感染、または検疫のため)、および感染防止対策として予約人数の制限をしているに違いありません。当面は痛み止めで痛みを抑え、できる限り通常どおり首を動かすようにとのアドバイスを受けました。

ともかく下を向けないので、2月中旬に参加予定だったある催しを延期することにしました。下を向いて行う作業がメインであるため、今のこの状態では到底こなすことができないと思ったからです。キャンセルには医者の診断書が必要なので、受診した際診断書も書いていただきました。

さて、ここからが本題ですが、私はその診断書を見てビックリしました。診断書には「健康上の理由から、XX(私の名前)はXX(催し名)には参加できません」と簡単に書いてあるだけです。受け取った時には、率直に言って驚きました。健康上の理由。果たしてこれが診断書として機能するのか疑問に思ったので、夫に診断書を見せて「診断書に病名が書かれていないんだけれど、これで大丈夫なのかな」と聞くと、今度は逆に夫が驚きました。「病名だって?病名なんて、診断書に書くわけないじゃないか。病気はあくまでも個人的な問題で、医者と患者(もしくはその家族)の間だけの話だ。病名を書いた診断書なんて、未だかつて見たことがないよ」と言われました。

言われてみれば確かに病気は個人情報の最たるものですが、日本では病名なしの診断書って、果たして機能するのでしょうか。
東京で働いていた頃、私は仕事柄何度か他人の診断書(実物)を見る機会があったのですが、その時は「当人がどのような病気に罹患しているのか」という点が診断書の主たる情報だと考えていました(もちろん、これには厳しい守秘義務が伴い他言絶対無用です)。それから10年以上の時間が経過し、日本でも個人情報に対する考え方はずいぶん変わったのではないかと思います。「病気は個人情報。従って、診断書に病名は記載しない」というドイツの考え方は、現在の日本では同様に受け入れられているのでしょうか。日本で同じく首の痛みで悩んでいる妹に、今度聞いてみようと思います。

後記

時々、「ドイツ人と日本人は似ている」という文章を目にすることがあります。もちろん、あれこれ探してみれば似ている部分もあるでしょう。私自身もドイツに長く住む前は「そうかもしれない」と考えていました。しかし、今では最も深い部分、その根幹を成す部分でドイツ人と日本人は似ても似つかぬものをお互い持っていると感じることが次第に多くなりました。
ところで、移住前の私も含めた多くの日本人が想像する「ドイツ人」または「ドイツ的なもの」と21世紀現在のドイツとには、若干ズレがあるようにも思うのです。日本人が想像している「ドイツ的なもの」とは、すなわち「プロイセン的なもの」に近いような気がします。ところが、ドイツは第2次大戦に敗戦した後、(少なくとも西ドイツでは)戦前の価値観を全否定することから出発しました。その際、ヒトラーのドイツが少なからず引き継いでいたプロイセン的なものも、やはり全否定されてしまったように思えるのです。
もちろんこれはドイツ人である夫の話を加味した私の単なる感想であり、研究書や論文を当たって調べてみたわけではありません。しかし、ドイツに来た人が「想像していたのとは違う」と思う時、そこには「プロイセン的ドイツ」と「第2次大戦後の(西)ドイツが作り上げたもの」との差が存在するのではないかと考えるのです。
なお、本文中に「2月中旬に参加予定だったある催し」とあるのは、C1試験のことです。この記事を転載するにあたり再度読み直し、あの時は本当に大変だったと改めて思いました。ああ、C1試験に1回で受かって良かった。あの試験を再び受けるのは無理、絶対無理。

(この記事は、2022年2月2日にブログに投稿した記事に後記を書き加えた上で、転載したものです。)