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Hの災い

ドイツ語の発音はそれほど難しくない。基本的に書いてある文字をローマ字読みすれば良い。
一体いつどこで目にしたのか、ドイツに来てドイツ語を勉強し始めた頃、既に私の頭の中にはそんな文章が刷り込まれていました。英語との付き合いは長いのに、未だにその発音に自信がない私。「ドイツ語の発音は簡単だから」と、最初から完全に甘く考えて勉強し始めたのでしたが、まもなく泣きを見ることになります。

ドイツ長期滞在許可を得るために、私は短期間のうちに一定のレベルのドイツ語を習得しなければなりませんでした。そこで、夫の勧めに従い、A1という初級レベルの1ヶ月短期集中講座に参加することにしました。少人数の講座だったのですが、私以外に講座に登録していたロシア人2人が2人とも姿を見せなかったので、最初の3週間は完全な個人授業となりました(1人は講座期間も残り1週間となった時、突然、完全に尻に火がついた状態で姿を現しました)。実は後々考えるとこれが非常に良かったのだと今では思っています。なぜなら、先生は私がドイツ語の単語を発音する時、私の声に耳を傾け、口元を凝視して、徹底的にその発音を矯正していったからです。基本的に書いてある文字をローマ字読みすれば良いだって?誰よ、そんなこと書いたの。そんなことは絶対にありません。

「L」と「R」の発音が難しかったんでしょ?

そう思う人もいるかもしれません。でも、それは既に英語を勉強した段階で折り込み済みです。私の場合、まずは「M」と「N」の発音で引っかかりました。「M」を発音する時は唇をしっかり合わせる、「N」を発音する時は唇を閉じてはならない。書くと簡単ですが、文章の中にMやNが登場すると、意外に思うとおりに発音できないのです。試しに「aus dem Fenster sehen(窓から外を眺める)」と「den Zug verpassen(電車に乗り遅れる)」と言ってみてください。特に末尾の「N」を発音する時、口を閉じないで発音することが、意外と難しく感じられませんか。最後に力を抜いて、うっかり口を閉じで「N」と発音してしまうと、即座に先生から「それはNじゃなくてM」という突っ込みが入りました。

しかし、それよりも更に難しかったのは「H」の発音でした。

ある日、先生に短いテキストを朗読するよう指示されました。私の音読を先生は目をつぶって聞いています。私がしばらく読み進んでいくと、先生が「待って」と突然ストップをかけました。「今なんて言ったの?」

それは「Hund(犬)」という単語でした。
「Hundです」と私は答えました。「え?」と先生。ちょっと、何で「犬」って言ってるのがわからないのよ。私がテキストを広げ当該単語を指さすと、先生は「ああ、Hund!」と、やった会得したように呟きます。それからが大変でした。猛烈な「H」の特訓が始まりました。日本語の「は行音」は、口の前のほうで発音します。それに対し、ドイツ語の「H」は、言葉で正確に言い表すのが難しいのですが、口蓋の奥のほうを使って発音するのです。最近は聞き分けられるようになりましたが、当時はその音の違いを私は全く聞き取ることができませんでした。正確に聞き取ることが出来ないものを、正しく発音することはできません。外国語には「良い耳」が必要だと痛感しました。

「Hund」
「違う」
「Hund」
「違う」
「Hund」
「違う」
「Hund」
「違う」

一体何回「犬」と言わされたか、覚えていません。家に帰ると今度は夫が先生となり、私に繰り返し「犬」と言わせます。これには本当に参りました。

この他にも、細かく細かく、本当に細かく発音を矯正されました。一対一の授業だったので、私が完璧に発音できるようになるまで、先生は何度でも繰り返します。毎回、ドイツ語の授業が終わると、口まわりは強張り喉がガサガサになっている...、そんな日が続きました。

ただし、今はこの時の経験が非常に役立っていると思っています。
発音に自信がない英語とは対照的に、ドイツ語ではずいぶん早い段階からドイツの人々とコミュニケーションをとることができるようになりました。例え文法的に正しく話せなくても、一つ一つの単語を正確に発音しているので、私の舌足らずなドイツ語とその場の状況から、私が何を言っているのか相手が推測してくれるからです。「とりあえず通じた」という手応えがあれば、次の言葉を話す勇気が出てきます。これには本当に助けられました。

中学・高校・大学での英語の授業は全く役に立たず、20代後半には咄嗟に「twelve」と「twenty」の区別かつかないほど衰えていた私の英語。30代になり、ヨーロッパを一人で旅行したいがために、通勤時間にコツコツと独力で勉強しました。外国語はそれでも習得できるのかもしれません。実際、私は英語の本を問題なく読むことができます。ただし、会話となると、いつまで経っても自信のなさが拭いきれません。
もし、その言語を「コミュニケーションの道具」として対人関係に積極的に使っていくのであれば、文法よりも何よりも初期の段階で可能な限り正確な発音を身につけていくことが、実は最も大切なことなのかもしれない。対照的な勉強方法で習得した英語とドイツ語を比べるたびに、そんなことを考えます。

後記

本文中にも書いていますが、初歩の段階のうちにドイツ語の先生とドイツ人の夫から徹底的に発音を矯正してもらったことは、今でも本当に良かったと思っています。まさに「鉄は熱いうちに打て」です。それに対し、専ら通勤電車の中で独り学んだ英語の発音に関しては、未だに全く自信がありません。もちろん音声を聴いて発音の練習をしたのですが、例えばドイツ語の「H」のように、日本語と似て非なる微妙な発音は、ネイティブに指摘されるまで日本人の私には聞き分けらない場合があるからです。私がヨロヨロ話す英語のなかには、独りよがりの発音が山のように潜んでいるに違いありません。
ドイツ国内で日常生活を送っているぶんには、ドイツ語さえ話せれば問題なく暮らせますが、一歩ドイツ語圏から出てしまえば頼りになるのはやはり英語です。おまけに、2022年の秋冬セメスターと2023年の春夏セメスターは、ドイツ最大のユダヤ研究所がある最寄り都市の大学でユダイズムの講義を聴講したのですが、その講義の使用文献の8割はなんと英語でした。講義の最中見るビデオも英語ばかり(ユダイズムの研究はアメリカが一番進んでいるからだそうです)。ドイツ語の上達に反比例するように英語使用頻度が落ち、それに伴って単語を次々と忘れ始めていると感じていた矢先のことでした。ドイツに住んでいるからといって英語を蔑ろにしては、まずいのだ。ようやくそのことに気付き始めました。そこで何よりも全く自信のない英語の発音を第一に矯正したいのですが、なかなか時間(とお金)が割けません。
…ああ、言語に翻弄される日々。

(この記事は、2019年7月11日にブログに投稿した記事を一部修正し、新たに後記を書き加えた上で転載したものです。)