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日本人的ギブアンドテイク


   最近よく耳にする、「ギブアンドギブ」や「与える」を多用する所謂、意識高い系の人に対して散臭く感じる人も多いのではないだろうか。 マウント取られているような恩着せがましさを感じるような 場面は私にもある。つい、「私はどうせ意識低いですよ」と心の中で拗ねてみたりする。 ギバーとは、『自分が受け取る以上に他人に与える人』のことを指すが、ある意味見返りを求めない奉仕の精神からくる行動でなければ、結局マッチャーなのだ。でも私はマッチャーでもいいと思う。それが一番人間らしく思えるから。つまり何が言いたいかというと、ギブはそんなに簡単なものではないと思うのだ。

  私は別にこの考え方を否定しているわけではない。むしろ素晴らしい考え方だと思う。ただ同じ意味合いでも言葉のチョイス一つでその人のセンスが出ると感じたので日本人にしっくりくる言葉は何かを考えたくて、これを書き始めた。

 『GIVE&TAKE』の著者 アダム・グラントはアメリカの心理学者である。この本はざっくりいうと『与える人が結局成功する』という事を書いている。強引かも知れないが私はこのギブの精神には、キリスト教的思想が色濃く影響しているのではないかと思う。アメリカは「神が作った国」と言われているくらいキリスト教的な思想が根強くある国だ。この著者がキリスト教徒かは知らないが、「ギブ」にはきっと、イエス・キリストの「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」に代表される自己犠牲的な考え方が根底にある気がするのだ。あなたは右の頬を打たれて左の頬も差し出せるだろうか。私なら三倍返しにする。屁理屈だろうが強引だろうが私はそれくらいの覚悟(=奉仕の精神)が「ギブ」には必要だと思えてしまうのだ。

  日本人にも先の大戦での特攻隊の例があるように自己犠牲を美徳とされてきた歴史があるが、キリスト教的自己犠牲を性質が違う。日本人には唯一神を崇拝する文化が元々ない。八百万の神々を崇め日本以外の神様も大事にしてきた民族なのだ。平たく言うと、キリスト教的自己犠牲には絶対的な「神」の存在がある。しかし元々の日本人にはそれがない。だから日本人には「ギブアンドギブ」という言葉が馴染みにくいんじゃないかと考えるのだ。

 では日本における同じ意味になるものは何か。これには鎌倉武士由来の「御恩と奉公」が昭和的日本人の私にはしっくりくる。 「御恩と奉公」とは、主君は従者の働きに応じて褒美を与え、従者は主君から受けた恩を返す事をいう。 現代的には主従関係なく相互に繰り返し円のようにループしていくものが「ギブアンドテイク」であり、その進化形が「ギブアンドギブ」にあたると私は思うのだ。つまり、日本人にとっての「ギブ」とは「恩」があるかどうかに関係してくる。

  もしあなたが、出会ったばかりでそこまで恩を感じられる筋合いのない人から良くしてもらった時や親身になってもらった時に「何でそこまでしてくれるんだろう」と思う事があったら、きっとそれはその人があなたとの縁を大切に感じ、さらに「恩」を感じてるからなのではないだろうか。

 日本人は昔から恩を返すのが好きな民族だ。だから例えそれが同じ意味だとしても、「ギブ」は無理でも「恩返し」ならできると思う日本人が多い気がする。


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