『すずめの戸締まり』考察 【戸締まりすること、人生を締めること、命を終わらせること。そうして、次の世代に託し、新たな扉を開くこと。】
新海監督は、次のように仰っていたことがあります。
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新海監督
『大人って、もっと大人になっていくと……、
僕らまだ40代ですけど、80とか90になっていくと、きっともう次の世代に託していかないといけないと、思うんですよね。
(次の世代に)パスして、自分をどうやって
“締めて”
“終わりにしていくかっていうことを”
考えないといけないと思う。
※ラジオ 【AKB48 11th Stage 】
1時間13分48秒より。
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皆様、どうかお願いします!!
この新海監督の思いを、どうか聞いて下さい!!
私の書いた、この考察記事なんか、正直もうどうでもいいです!!!!!!
でも、新海監督のこの言葉は、どうか聞いて下さい!!
『すずめの戸締まり』の
“鍵”
がここにあるんです!!!!
下の画面をタッチして頂けると、ちょうど、新海監督が上の言葉を話されているところから、動画が始まってくれます!
どうか、お願いします!!!!
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新海監督は今から6年前、君の名は。が大ヒットした年である2016年に、このラジオ番組に出演されました。
そこで、君の名は。が大人にも人気であるということで、新海監督はラジオのパーソナリティから、大人に向けてのメッセージを求められていました。
そこで、新海監督は上の文字起こしにある通り、
【自分を『締め』て、終わりにしていく】
と表現されました。
そして今作のタイトルは、
【すずめの戸『締まり』です。】
今、この記事をご覧になっている多くの方は、
『新海監督の過去の発言、しかも6年も前の発言を引用して、新作、すずめの戸締りを考察していくのは、あまりに非合理的なのでは?』
と、思われるかもしれません。
ただ、以下の
【閉じ師の鍵】
が、何を意味するかの説明を見ていただければ、荒唐無稽ではないのかなと、感じていただけると思います。
【次の世代に託すための】
閉じ師の鍵の意匠たる、
自らの尾を噛む龍は、
【死と再生】
を意味する。
おそらく新海監督はあの鍵を、
『すずめの戸締まり』
という物語、
それ自体の
【鍵】
とすることを意図し、描いたのでしょう。
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新海監督は、すずめの戸締まりの製作発表記者会見で、この映画は、
【可能性を閉じていく話】
なのだと仰っていました。
すずめの戸締まり、製作発表記者会見 5分46秒から。
下の画像をタッチすると、動画がちょうど始まります!!
是非、新海監督の今作に込めた想いを聞いてみてください!!!!
(以下、新海監督の記者会見での発言より抜粋)
「扉を閉じていく物語を作りたい、ということについてです。
どんなことでもそうですが、何かを始めることより終わらせることの方が難しいと思います。
(中略)
あるいはもしかしたら、僕たちの
【少子高齢化】
が進んでいくようなこの国にとっては、
【いろいろなできごと】が、はじめることよりも、閉じていくことの方が難しいと感じることが多くなってきました
ですので、今作るべきは、今、お客さんが見たいのは、いろいろな可能性をどんどん開いていく物語ではなくて、
ひとつひとつの散らかってしまった可能性を、もう一度きちんと見つめて、あるべき手段で、きちんと閉じていく。
そのことによって、
次に進むべき新しい場所、
本当の新しい場所を見つける、
そういう物語を、今、作るべきなんじゃないか、今、お客様が見たいんじゃないかと考えて、
開いていくよりかは閉じていく物語にしたいと考えました。
なので、今回、扉なんですね。」
新海監督のホームページは、現在リンク切れになっているため直接ご紹介できませんが、新海監督はブログの中で、こんな風に仰っていました。
『たった2時間程度のアニメーション映画を作るのに、なぜこれほど時間がかかるのだろう。
数ヶ月でがらりと変わってしまうような世界の中で、相も変わらずこんな時間の使い 方をしていて良いのだろうか。
死に際に後悔してしまうのではないか。』
私は、上手く言えないのですが、
人は多かれ少なかれ、
みんなそうだと思うのですが、
新海監督も、やはり、
『自分の残り時間』
を気にしていらっしゃったのではないでしょうか?
新海監督は製作発表記者会見で、
「すずめの戸締まり」を、
『様々な可能性を閉じていく話』
なのだと話されていました。
だから、劇中、様々な“閉ざされていく可能性”が、おそらくは描写されるのでしょう。
しかし、
“物語の中心となるべき、
閉ざされていく可能性、閉じるべき可能性”
は、一体何なのか?
予告編の画像を見て、思うに、
それは、やはり『生命』だったのではないか?
新海監督の作品には、連続性があります。
新海監督は、『新海誠の世界』という書籍のインタビューでこんなことも仰っていました。
(以下、KADOKAWA刊 榎本正樹著 『新海誠の世界』より抜粋)
新海監督
【『天気の子』のどこかのシーンが次の作品にリンクし、作品同士が連結するようなことが再び起こるかもしれません。】
【よく「○○三部作」みたいなことが言われますよね。最初はそんなつもりじゃなかったけれど、作り続けていったら結果的にトリロジー(三部作)になった作品って、たくさんあると思うんです。】
だから、あの、
【厄災の象徴たる龍】
が描かれることは、
おそらく多くの方が予想されていたのではないでしょうか?
新海監督は、製作発表記者会見で
『少子高齢化』
『過疎化』
に言及されていました。
そうであるならば、
私達の国や社会、
あるいは文明が、
衰退していく描写と絡めて、
あるいは重ねて、
『生きることを終える』
ということが、描かれる。
そうして、
あの厄災の象徴である龍と対峙する。
【ただ、『すずめの戸締まり』は、単に命の終わりを描き、国や社会や文明の衰退を描く物語に、果たしてとどまるのでしょうか?
すずめの戸締まりは、
『新しい扉がここにあるよ』
と、教えてくれるような映画になるのではないでしょうか?】
以下、考察の結論部分
ネタバレ注意!!
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新海監督は、制作発表記者会見で
『少子高齢化』
『過疎化』
に言及されていました。
おそらくは、私達の国や社会、あるいは文明が、
衰退していく描写と絡めて、
あるいは重ねて、
『命の終わり』が描かれるのでしょう。
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確かに“衰退”は描かれました。
でも、
扉を締めるときに、
【命の終わり】は描かれなかった。
新海監督は、
“様々な理由で”
“直接的には”
描かなかったのでしょう。
新海監督は、製作発表記者会見で次のように仰っていました。
新海監督
『あるいはもしかしたら、僕たちの少子高齢化が進んでいくようなこの国にとっては、
“いろいろなできごとが”
はじめることよりも、閉じていくことの方が難しいと感じることが多くなってきました』
扉の向こうの、
死者が住まう、常世(とこよ)から現れた、
あのミミズは、
そして、あのミミズが、
扉を閉ざすことによって、“消え去り”
その時に
“虹色の雨が降る描写”
がなされるのは、
やはり、
“二重写”
だったのでしょう。
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※以下、本年の考察記事より抜粋
新海監督は、製作発表記者会見で、すずめの戸締まりを、
『様々な可能性を閉じていく話』
なのだと話されていました。
だから、劇中、様々な
“閉ざされていく可能性”
が、おそらくは描写されるのでしょう。
しかし、
“物語の中心となるべき、
閉ざされていく可能性、閉じるべき可能性”
は、一体、何なのか?
予告編の画像を見て、思うに、
それは、やはり『生命』なのではないか。
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すずめの戸締まりにおいては、
【常世(とこよ)は死者のいる場所】
との台詞が複数ありました。
しかし、
『すべての時間が溶け合った』
ような、扉の向こうの
【常世(とこよ)】に、
死者は一人もいなかった。
死者はどこにいたのか?
閉じ師、宗像草太の祖父であり、
同時に閉じ師の師匠でもあった、
宗像羊朗の劇中の描写においては………
“腕が無い”という描写がなされます。
※以下、小説 すずめの戸締まり
191ページより抜粋
『彼の右腕がないことに、右肩からすっぱりと落ちるように病院着がへこんでいることに、私は今になって初めて気づく。』
以下の画像をタッチすると、新海監督が、私達が立つ“場所”が、一体、何から成るのか、話されている箇所から、動画が始まります。
新海監督
『場所って、僕達が今立っている地面も含めて、(僕達は)“人”を含めた生き物の骸(むくろ)の上に立っている。土って死骸そのものじゃないですか。動物の死体であり、虫の死体であり、人間の死体でもあるわけですよね。』
新海監督が言うように、場所が人を含めた骸からなるのであれば、大地から金色を吸い上げるあのミミズは、やはり、
人を、死者を、あるいはその骸(むくろ)を、あるいは、その魂を、喰らう存在なのでしょう。
新海誠監督はあるインタビューで、
“場所”を悼むイメージが、閉じ師に繋がったと仰っていました。
※以下、anan 2022年10月26日号のインタビューより。
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私達の立つ“場所”が、
『人を含めた骸からなる』
のであれば、
そして、閉じ師が、
“場所”を悼む存在なのであれば、
新海監督は、悼む対象に、
そこにいたはずの今は亡き【人間】をも、
やはり含めているのでしょう。
新海監督は、映画公開後、次のようにも仰っていました。
おそらく新海監督は、
【廃墟】
と、
【時を経て変わり果てた人間の姿】
とを、
“二重写”にしたかったのでしょう。
新海監督は、
映画を見る観客の脳裏に、
【廃墟】
と、
【時を経て変わり果てた人間の姿】
とを、
“情景として重ねること”を、
意図したのでしょう。
あのミミズは、
あるいは、劇中で描かれた廃墟は、
あれらは、本来の姿かたちを失い、
変わり果てた人の、
成れの果て、
あるいは、その暗喩なのでしょう。
君の中にある赤と青き線
(あなたの動脈と静脈)
それらが結ばれるのは 心の臓
風の中でも負けないような声で
届ける言葉を今は育ててる
時はまくらぎ
(時間は終端への線路を支える枕木で、)
風はにきはだ
(それでも、風は柔らかい肌のように吹く。)
星はうぶすな
(私が誕生した土地の守り神(産土)は、空で、星として輝く。)
人はかげろう
(でも、人は陽炎、あるいは蜉蝣のように儚い。)
なんで泣いてるのと聞かれ答えれる 涙なんかじゃ
僕ら出逢えたことの意味にはまるで 追いつかない
この身ひとつじゃ 足りない叫び
あの悲しげな旋律にのせた、劇中歌、『すずめ』の歌詞は、野田洋次郎さんが
“いつかは、必ず終わらざるをえない、人の運命”
を歌ったものなのでしょう。↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
※以下、本年の考察記事より抜粋
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劇中、閉じ師、宗像草太は【ミミズ】と対峙するときに、次のような祝詞を神に捧げます。
かけまくもかしこき日見不の神よ
【声に出して言うのも畏れ多い※日見不(ひみず)の神よ】
※[「ひみず」とは、「みみず」の意。]
遠つ御祖の産土(うぶすな)よ。
(古来から現在に至るまで、“この地に生まれた人々”を守りし、土地の神よ)
久しく拝領つかまつったこの山河、
(長い間、お預かりしていたこの山と河)
かしこみかしこみ、謹んで
(おそれ多くも謹んで)
お返し申す
宗像草太の祝詞は、祓詞(はらえことば)、すなわち、祓のために、神に奏上する詞なのでしょう。
山と河を産土(うぶすな、生まれた土地の神)に返すことで、穢(けがれ)を払う。
そうして魂を鎮め、
【戸締まり】
をすることで、
あるべきかたち(虹色の雨)にし、“還す”。
新海監督は、おそらくは、そのように意図し、あの祝詞を物語に組み込んだのでしょう。
そして、野田洋次郎さんは、あの劇中歌、「すずめ」の歌詞を紡いだ。
劇中において、扉を締めるときに閉じ師、宗像草太は、次のようにも、叫びました。
以下、小説 すずめの戸締まり 68ページより抜粋
『かつてここにあったはずの景色。 ここにいたはずの人々。その感情。
それを想って、声を聴くんだ!』
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劇中で草太と鈴芽がしたように、
“人が生きた証(あかし)”
を、あのように切に想う人がいるのであれば、
もしかしたら、
扉(可能性)を閉ざし、
【次の世代に託す】
ことも、決して悪いことでは、ないのかも知れない。
ただ、私は予測を、
大きく違えた部分がありました。
【命を終えること】は、物語の中心となるべきものでは、絶対になかった。
また、すずめの戸締まりは、
【生きることを終える話】
と、表現すべき映画では、絶対になかった。
新海監督、
すずめの戸締まりの、
【物語の中心となるべきもの】は、
【生きることを終える】
とはむしろ正反対の、
『生きていて欲しい』
という、願いだったんですね。
草太を救うために常世(死者の場所)に赴くという鈴芽に、
死を間近に控えた────あるいは、死すらも、もしかしたら長い間許されず、この世に止め置かれるかも知れない────宗像羊朗氏は、次のように問いかけます。
『常世は美しいが、死者の場所だ』
『あなたは、怖くはないのか?』
鈴芽はこう答えます。
『……怖くなんてない。』
『草太さんのいない世界が、私は怖いです!』
どうか、鈴芽を演じた原菜乃華さんの思いを聞いてください!
どうかお願いします!
以下の画像をタッチすると、ちょうどその場面から、動画が始まります!
そして、最後まで、この動画は、どうか見きって下ださい!
劇中では【行ってらっしゃい】という言葉が、繰り返されます。
そして鈴芽は、劇中、【行ってきます】
と言います。
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※以下は本年の考察記事に、一部、新たに画像を挿入し、一部文言を変更したもの。
ただ、『すずめの戸締まり』は、単に命の終わりを描き、国や社会や文明の衰退を描く物語に、果たしてとどまるのでしょうか?
すずめの戸締まりという物語は、
扉から現れるであろう、あの厄災の象徴たる龍を、
その場所にいたはずの人々、その感情
それを想って、声を聴き、
扉を締めることで、
虹色の雨にして、“還す”。
そうすることで、『戸締まり』を描き、見せ、
そうして、私達に、
『新たな可能性(扉)』
を指し示してくれる、そんな映画になっていたのでしょう。
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ようやく、
【次の世代に託すこと】
という、意味不明な、
この考察記事のタイトルの回収ができます。
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新海監督の
『きっともう次の世代に託していかないといけない』
あるいは、
『パスして、自分をどうやって【締めて】終わりにしていくか』、
この、考察記事の冒頭で紹介した、新海監督の、これらの言葉に、導かれるように、支えられながら、
でも、まったく見当違いな考察をしているのでは?という不安にも、苛まれながら、
私はずっと、この記事を記してきました。
下の画面をタッチして頂けると、ちょうど、新海監督が、これらの言葉を話されているところから、動画が始まってくれます。
以下の動画、1時間13分48秒からです。
私の考察記事なんか、
正直もう、本当に、どうでもいいです。
でも皆様、新海監督の“思い”は、
直接、もう一度、どうか聞いて下さい!!
どうか、お願いします!!!!
正直に白状すれば、
必死に考え、
強い思いで、ずっと探し求めていても、
結局、
すずめの戸締まりの小説を読むまで、私は、
【次の世代に託すこと】
が一体何か、ずっと予測できなかったです。
自分でこの考察記事のタイトルにした理由も、
自分ではまったく見当もつかず、
ときに、この考察を書くことは、
新海監督や沢山のスタッフの方達が、
命がけで作り上げた、
『すずめの戸締まり』という作品に、
傷をつけることに、ならないか?
作品に汚れを付けることには、ならないか?
私は、怯えてもいました。
それでも、新海監督の言葉に、
私は、
しがみつくように、
すがりながら、
この予測、考察記事をずっと書き続けていました。
【次の世代に託すこと】
という言葉の意味を、ずっと探し求めていました。
でも、
私自身、何故呟いていたかもはっきり分からなかった、意味不明なツイートの意味にも、
──── フォロワーの皆様、当時はわけわからないTweetをして、お騒がせしました────
ようやく触れることが、できた気がします。
鈴芽は次のように幼いすずめに語りかけ、椅子を託します。
ねえ、すずめ──。
あなたはこれからも誰かを大好きになるし、あなたを大好きになってくれる誰かとも、たくさん出会う。
今は真っ暗闇に思えるかもしれないけれど、いつか必ず朝が来る。
朝が来て、また夜が来て、それを何度も繰り返して、あなたは光の中で大人になっていく。
必ずそうなるの。
それはちゃんと、決まっていることなの。
誰にも邪魔なんて出来ない。
この先に何が起きたとしても、誰も、すずめの邪魔なんて出来ないの。
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より正確に言えば、
鈴芽は、
【“椅子”を託したのではなかった】
のでしょう。
ましてや、【次の世代に託すこと】は、
使命や、義務などでは、決してなかった。
鈴芽の母は、鈴芽は、あるいは、
劇中、鈴芽と関わり合う人々は、おそらく、
ただただ、この世界で
『生きていて欲しい』
という【願い】を、鈴芽に託したのでしょう。
あの椅子が三本足なのは、理由があるのでしょう。
私達を襲う厄災によって、
あるいは、私達が日々、日常を生きていくなかで、
もしかしたら、
【生きていて欲しいという願い】
そのものすらも、
あの椅子の足のように、欠けることがあるのかも知れない。
それでも、失われずに残る想いがある。
新海監督は、もしかしたら、このように考え、あの三本足の椅子を描いたのではないでしょうか?
そして、新海監督は、映画を見る若い世代の方達にも、きっと願いを託したかったのでしょう。
以下はあるインタビューで、新海監督が話されていたことです。
上のインタビューにもあるように、
新海監督は10代の若い方達が、
『もう少し生きていたい』
と思えるため、
映画を作っているのでしょう。
ラストシーンの前に、閉じ師、宗像草太は再び困難な仕事につきます。
『【人の心の重さが、その土地を鎮めてるんだ。】 それが消えて後ろ戸が開いてしまった場所が、きっとまだある』
新海監督は、閉じ師は、
『土地を弔う者』
と、インタビューで言及されていました。
そして、劇中において、
閉じ師は、土地を弔うとき、
『人の生きた証(あかし)』
を強く想う。
【人の心の重さ】が消えてしまった場所に、後ろ戸は開くから。
だから、“衰退”という、
日々よって立つ、大地をも揺るがすような、巨大な“厄災”に直面する私達は、
【後ろ戸】が開かぬよう、
【人の心の重さ】
を消さぬよう、
今、現に、目の前で生きている人の、
【生きた証(あかし)】
を、何よりも強く想い、願うことが、もしかしたら大事なことで
あるいは、そのことが、
【衰退】にどう向き合うべきかの、“答え”を示すものでは、ないのかも、しれないけれど、
でも、私達が、
『あなたがいない世界が、私は怖い』
という思いを、
もう一度、取り戻すことは、
もしかしたら、
【衰退】を生きる私達の、何かの希望に繋がる事、なのかもしれない。
閉じ師の鍵の意匠たる、
自らの尾を噛む龍は、
【死と再生】を意味する。
新海監督はあの鍵を、単に、劇中における閉じ師の鍵として描いただけでなく、
やはり、『すずめの戸締まり』という物語、それ自体の【鍵】とすることを意図し、描いたのだと、私は理解しています。
ただ、新海監督は何よりも、
【再生】
すなわち、再び生きて欲しいという願いを、この映画に込めたのだと、私は考えています。
今しばらく、お付き合い下さい。
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すずめの戸締りのラストシーンは、次のように描かれました。
以下、KADOKAWA刊
小説すずめの戸締まり 284ページより抜粋。
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その人はロングコートを風にはらませながら、しっかりとした足どりで私に近づいてくる。
一目で彼だと分かった。
【“あの日”】に皆が言えなかった言葉を、私はこれから言うのだとふと思った。
彼が立ち止まる。私も自転車を止めた。海の匂いを深く胸に溜めて、
「おかえり」
※【よく、ご無事でお帰りなさいました】
と、私は言った。
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新海監督、すずめの戸締まりは、
あなたの作品の、歴代最高傑作でした。
本当に素晴らしい映画を、ありがとうございました。
私はただの一ファンで、新海監督とはたった一度、ほんの一瞬、言葉を交わしたことがあるにすぎません。
だから新海監督が何を願ったのか、やはり推測の域を出ないのです。
やはりこの考察記事は、断片情報を繋ぎ合わせた、単なる憶測にしかすぎないのです。
だから私は、
【新海監督の気持ちがわかる】
などと、
そんな軽々しいことは、
絶対に言いたくはないです。
ここまで読んで頂いた方には、本当に感謝しかありません。
でも最後に、ここまで読んで頂いた方に、どうしてもお願いしたいことが私にはあります。
でもそれは、
私は、
“難しいこと”
だとも、理解は、しています。
新海監督は、
『おかえり』
(※よく、ご無事でお帰りなさいました)
という言葉を、
“どこかの誰かに”
きっと、言いたかったはず。
すずめの戸締まりを作っている最中、新海監督はこのように仰っていました。
『今の新作も、どこかの誰か1人に深く刺さ って忘れられない映画になることを祈りながら作っています。
難しいことですが。』
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以下は、KADOKAWA 小説『すずめの戸締まり』のあとがきより、抜粋したものです。
新海監督は、あとがきで次のように仰っていました。
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僕にとっては三十八歳の時に、東日本で震災が起きた。自分が直接被災したわけではなく、しかしそれは四十代を通じての通奏低音となった。
アニメーションを作りながら、
小説を書きながら、
子供を育てながら、
ずっと頭にあったのはあの時感じた思いだった。
なぜ。どうしてなぜこの人が。
なぜ自分ではなく。
このままですむのか。
このまま逃げ切れるのか。
知らないふりをし続けていたのか。
どうすれば。
どうしていれば。
そんなことを際限なく考え続けてしまうことと、
アニメーション映画を作ることが、
いつの間にかほとんど同じ作業になっていた。
あの後も世界が書き換わってしまうような瞬間を何度か目にしてきたけれど、自分の底に流れる音は、二〇一一年に固着してしまったような気がしている。
その音を今も聞きながら、僕はこの物語を書いた。
そしてたぶんこれからも、
ぐるぐると同じようなことを考えながら、
あまり代わり映えのしない話を
(代わり映えさせようと努力はしているんですが)
今度こそもうすこし上手く語ろうと、
次こそはもっと観客や読者に楽しんでもらえるようにと、作り続けていくのだと思う。
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以下は、毎日新聞の記事です。
震災遺児の少女が、
17歳で自ら命を断ったと報じたものです。
以下のような記事も。
私達が見ていなかっただけで、
311の、あの震災以降、被災地ではずっと人が亡くなり続けていたのだと、私は理解しています。
私達が気がつかなかっただけで、
11年前に私達を襲った、あの巨大な厄災は、
あれからずっと、
そして、おそらくは今も、
人を殺し続けているのでしょう。
ここまでお読み頂き、
本当にありがとうございました。
これから私が皆様にお願いすることは、
あまりに非常識で、
震災による心の傷を軽く見た、
戯言だとの非難を、受けることだとも、思います。
しかし、私には皆様に、
どうしてもお願いしたいことがあります。
もし許さるのであれば、
すずめの戸締まり、素晴らしかったよ、
どうか見て、と
あの日に、あの場所にいて、
そうして、そこから帰ってきた人が、
もしこの記事をご覧になっている方の、
身近にいるのであれば、
その人にとってはもしかしたらこの映画を見るのは、とても、つらいことなのかもしれないけれど、
もし、それが許さるのであれば、
また、できること、なのであれば、
どうか、この映画、
「すずめの戸締まり」に、
連れて行ってあげてください。
ここまで見てくださり、本当にありがとうございました。
この長い記事をご覧頂いた方には、
本当に本当に、感謝しかありません。
本当にありがとうございました。
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考察メモ:閉じ師の祝詞について
かけまくもかしこき日見不の神よ
(声に出して言うのも畏れ多い日見不(ひみず→みみず)の神よ)
遠つ御祖の産土(うぶすな)よ。※2
(古来から現在に至るまで、“この地に生まれた人々”を守りし、土地の神よ)
久しく拝領つかまつったこの山河
(長い間、お預かりしていたこの山と河)
かしこみかしこみ、謹んで
(おそれ多くも謹んで)
お返し申す
※2【産土について。産土は、生まれた土地の神の意で、その土地を離れても、その土地で生まれた者を生涯守るとされる。】
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考察メモ:【宗像氏】について
宗像氏について。古代において宗像氏は九州一帯に勢力を広げた海洋豪族であった。
すずめの戸締まりの物語で皇居が登場したことを鑑みるに、
『宗像氏は、日本の歴史における王権の成立、もしくは皇室の始祖と関わった部族』
と、ここではひとまず仮に表現したい。日本の古代史に関し、このような研究が存在しており、これを踏まえ、今後の考察を進めたい。】
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念の為
私の新海監督作品の考察記事には、新海監督の作品の画像、および台詞、監督のインタビューなどが多数あります。
しかし、それらは全て著作権法第32条に定める研究その他の目的として行われる引用であり、著作権は言うまでもなく、新海誠監督、コミックスウェーブフィルはじめ、元の権利者に帰属します。
本考察記事を記述した者(私)が、なんら権利を有するものではありません。
なので、この記事、有料化は未来永劫ないです!!
ずっと無料でお読み頂けますよ(^^)
この記事が、新海監督の作品が世に広まる一助となれば、幸いです(^^)!!
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2023年7月28日、追記
以下は、2025年?、あるいは2026年?に公開されるであろう、新海監督の次回作の考察記事です(^^)!!
次回作のキーワードは、【光と闇のΧάος】
以下のリンクから考察記事に飛べます!!(^^)
是非ご覧下さい!!!!
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以下は、私が2年前に書いた、すずめの戸締まりの考察記事です(^^)
君の名は。から、天気の子に至るまで新海監督のインタビュー等がまとめてあります(^^)もしよければ、こちらも是非!!
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この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?