子煩悩スフレ
お久しぶりです。2ヶ月ほどnoteを不在にし、別投稿サイトに通っていました。最近考えたことをまとまらぬままにちょこっと書いたので、お時間あればのぞいてみてください。
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赤ちゃんとの生活は、永遠に味わえるスフレみたいだ。
スフレとは、本来、瞬間を味わうスイーツである。
その日の気温や湿度に合わせて、丁寧に材料を混ぜ合わせる。最高の焼き上がりになるように、配合や混ぜ方、焼き方を変えてみる。じっくり丁寧に焼き上げ、スポンジを口にする瞬間が、まさにスフレの食べどき。焼きたてでしゅわしゅわの最高の状態が続くのは30秒ほどで、オーブンから出した途端、スフレは刻々と変化する。
熱々のスフレにスプーンを滑らせるとシュワっと気泡がつぶれる音がする。「いまが食べごろだ!」という衝動に身を任せる。開けっぱなしのオーブンも、シンクに突っ込んだままの食器類も、テーブルに出しっぱなしの小麦粉や砂糖も無視して、「いま食べる」それ以外にすべきことなどないというほどスフレしか見えていない。
永遠に味わえるスフレとは、「いまここで食べなければ!」という瞬間が永遠とは、矛盾しているなあと思いつつも、赤ちゃんの本能的な衝動の連続は、まさしく永遠に味わえるスフレのようなのだ。
娘が産まれて、はやくも6ヶ月が経とうとしている。この6ヶ月、わたしは娘と“今ここ”だけを生きてきた。昨日はこうだったとか、明日はこうしようとか、そんな思慮は存在せず、今この瞬間を生きる毎日が続いている。
瞬間を積み重ねた「6ヶ月」という時間のまとまりは、確かな質量を持って娘の体と脳に蓄積されているように思う。
「お腹すいた?」と聞いても、「眠たいねぇ」と話しかけても、「いないないばぁ!」とあやしてみても、同じ答え、同じ反応が返ってくることはない。
昨日は7時に飲んだ1回目のミルクが今日は7時だとは限らない。
昨日できなかった寝返りが今日はできる。
今朝、彼女は自分の足を発見した。しげしげと眺めて、手でつかんで、口に入れようとする。
昨日うまくいった寝かしつけ方は今日は通用せず、小1時間格闘して、やっと寝たかと思えば、30分ほどでぱっちり目を開けた娘と視線が絡む。
その瞬間の娘の主張に合わせて、ミルクを用意してみたり、寝かしつけてみたり、一緒に遊んでみたり。じっと観察してみたり、『寝る遊ぶミルク』のエンドレスサイクル、単調で変わり映えしないようで、実は二度と繰り返されることのない時間を過ごしている。
24時間とか、9時5時とか、そんな時間軸にはいない。
時間の区切りもない。ただ本能にしたがって瞬間を重ねる。
とっておくような『後』も、『先』のための我慢も存在せず、ただただ目の前のスフレに集中し続ける。
いつも焼きたてで、食べどきで、ふわふわのしゅわしゅわだ。
わたしの、赤ちゃんとの生活が、統制された人間との生活に交わるときがある。それが料理をしているときだったりする。
出勤もない、退勤もない、お昼休みもない、土曜も日曜も関係なく、午前3時だろうと、午後3時だろうと関係のない、社会の波とは隔絶された空間に生きているように感じていても、私のお腹は朝、昼、夕、決まって空腹を訴える。
空腹によって現実に引き戻されるようにキッチンに立ち、外の世界の時間を認識するのだ。
あぁ、今日ももう終わりか。
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