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持続可能な共生のまちづくり ~2040年の八王子について考える~

東京都立大学 山下祐介

キーワード:共生、まちづくり、持続可能性

1.2040問題とは

①人口減少問題 

 ここで考えたいと思うのは、八王子の2040年を詳しく検証するというようなことではなくて(そういうことは次の総計に向けて市の方で進めているものを見ていただくとして)、いわゆる2040問題とは何か、一般にどう論じられ、その文脈で八王子市民が今から考えておかねばならない問題とは何かというものです。
 私の専門は都市社会学ですが、過密の反対の過疎、それも限界集落と言ったようなところを議論しています。そのために「2040問題」でお座敷がよくかかって地方で講演をすることが多いのですが、そこで感じるのはこの2040問題が、地方の、農山村の問題という印象で語られてしまっているということです。
 が、これはまさしく八王子市民にとっても重要な問題です。とともに何をどう考えればよいのかを整理したいと思います。

②地方創生

 2040問題とは何か。そのきっかけは社人研の将来人口推計の発表でした。
 日本の人口は今、急速な減少に入っています。国立社会保障・人口問題研究所の2017(平成29)年推計によれば、2015年の人口一億二千万人に対し、2040年には一億一千万人に、そして50年後の2065年には出生高位でも一億人を切るという。
 これを受けて八王子でも集計がなされ、57万人が47万人へ、人口10万人減が予測されています。
 この先どうなるのか。どう迎えればよいのか。まずは問題の起点はここにあります。
 これを、ある人々は、人口減少で地方は消滅すると論じました(増田寛也編『地方消滅』中央新書)。この人口減少は首都圏では緩やかに、地方でとくに急速に進むと予想されたからです。そこから地方創生も始まった。

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 こうして地方の問題にされ、地方と中央の関係が焦点にされたのですが、ここは地方創生を論じる場ではないので省略します。
 ともかく、この問題は人口減少だけで理解してはいけません。人口構成上の問題が重要です。とくに問題なのが、子供の数がどんどん減っていることだということ。このことが提起されたわけです。

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③八王子市の低い出生率にどう向き合うか?
 

 さてこの時に、地方よりも東京の出生力は低く、さらに実は八王子は東京都の中でもとくに出生力の低い自治体だと言うことができます。どうも多摩ニュータウンが低いのではないかとみていますが、このあたりまだ学術的にも十分に対応できていない領域です。
 ともかくその出生力を補っているのは外からの流入、社会増です。それがつまりは地方で生まれて人々が大人になって入ってくる人たちです。その地方から首都圏に来る人たちが子供を産んでいない。全体として人口が減り続けているという問題です。
 つまり、東京は関係ないと思ってはいけない。国家全体で生じている問題だということです。むしろその、国家消滅の現場が八王子市だと言うことさえできる


④八王子市だからこそできること
 

 とはいえ、国や一部の地方ではできないことが、八王子では可能です。
 まず国には現場はない。出生も子育ても暮らしの場で行われ、八王子はまさにその暮らしの場。人々が直接出会い活動している場所です。そのあり方次第で、この問題は具体的に考えていくことができる。実際にここで何かをして解決していくことが可能です。ここで行う子育てが国家を支えていると考えなくてはいけません。
 問題は子供たち。八王子は出生率は低いが若い人たちはいる。子育ての現場です。ここに子育てをしに集まってくる人もたくさんいる。私たちの工夫で、この国の抱えている問題を解くことができるということです。
 その際、問題のありかを取り違えてはいけません。人口が減る、財政が減る、だからインフラを減らす。経済でいかにして稼いでこのジリ貧化を防ぐかと、カネの問題であるかのように考える人がいる。しかし人口減少がすべての原因です。子供が生まれないことが問題です。逆に言えばそれが解ければよい。
 出生率が低すぎる。人々の希望は合計特殊出生率にすれば1.8をこえるといわれています。それが八王子では1.2くらいしかない。解決することは当然、ここにくらす人間の幸福・福祉につながります。

⑤妙な論理の罠に陥るな
 

 その反対に変な考えが生じ始めていることに注意もしておきたい。今述べたようにこの問題を人口問題ではなく経済の問題と取り違え、生産性の低い過疎地を切り捨てれば、過密地域は生き残れると考える人たちがいます。現実にそういう政策をしている都市があってゾッとします。芥川龍之介「蜘蛛の糸」のカンダタを思い起こせば、自分さえよければよいという考えがどんなことをもたらすか想像がつくはずです。八王子がそうならないようにしなくてはいけません。


2.八王子の地域学:東西/南北論
 

 その八王子の問題を考えたとき、二つの軸で地区別の課題を考えていく必要があるであるでしょう。


①八王子の過疎・過密、東西問題


 一つ目が八王子の東西問題とも言うべきもので、今触れた過疎過密問題がこの八王子の中にもあるということです。過疎過密は両者あって一つの現象です。一見、過疎だけが問題にされるがそうではない。とはいえ過疎過密でもそれでバランスがとれているならよいわけで、今はまだそのバランスは崩れてはいない。限界集落もその意味でまだバランスの中にあるので崩壊しないわけです(詳しくは拙著『限界集落の真実』を参照)。

 ただ、この過疎過密は何かの問題がおきうることを暗示していそうです。それは何かと言えば、先に山村の方から問題にすれば、例えば山が荒れている。土地管理の担い手がいなくなってきている。これはその地域だけの問題ではないです。その地域だけで言えば、「私たちの代で終わり。はいさよなら」でも、実は何も問題はない。孫たちの住む都会なり、老人ホームで余生を送ればよい。
 問題は実は次世代です。山が荒れれば当然その下流には大きな影響が及んでくることになる。私たちは自然の中にいるので、その自然との関係を無視はできないが、都会の暮らしはそれからいったん離れることで成り立っている。でも山村なしに都市は成立しない。山村がなくなれば人間と自然のバランスが崩れ、崩壊は都市にも及ぶからです。
 昨年7月に起きた熊本豪雨の被災地球磨川を、11月に見に行く機会がありました。山江村の復興計画に関わっています。そこで被災者たちがやはりこう言うわけです。山が荒れている。川の姿が大きく変わってしまったことが、この水害を引き起こした元凶だと。今川辺川ダムの再開だけがどうもこちらでは取り上げられていますが、実はダムの向こう側、その上流部の問題の方が深刻だという意識が、被災した人々の間では大きいようです。
 こうしてみると、総合計画は環境計画としっかりセットにしていく必要がある。人間だけを射程に入れていると、人間の生命としての側面が抜けてしまいますから。

 さて、他方で過密の方の問題についてももちろん、私たちは十分に自覚しておく必要があります。

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 どこかで過疎が病理で、過密は問題なしにされる。経済がいいからと。ところが、過密という場が持つ病理の方が実は問題ではないでしょうか。
 ここでは私が直接見聞きしている広島県福山市の例を示したいと思います。
 ここでは町中のマンモス校で学校に行けなくなった子が、過疎地の小規模校に転校し、そこで普通にいけるようになっている例を確認しました。どうも過密の学校は人間に優しくない。そこで過疎の学校に行くと普通にいけるようになる。小規模特認校は過疎地の学校を残すための方策だったのですが、今は逆に、不登校生徒の行ける学校を確保するのに有効な手段として活用されはじめているようです。ところが福山市はそんなことは許さないと、こうした小規模校を廃止し、フリースクール等不登校児童向けの学校への移行を進めています。不登校児童への対応を児童や保護者の意志に沿って行いなさいという国の動きからすると逆行と言えるもので、地元地域や保護者たちが賢明に残そうと頑張っていますが、実は最も重要なことは過密地域の住民自身が過密がもたらす問題性に気付いておらず、子供たちの間で起きている問題を子供の心が弱いからと決めつけていることでしょう。
 過密という意味では、八王子の過密度は決して低いものではない。人が密度高く暮らしているとそれだけでストレスになります。かといって過密状態で暮らすしかない事情もある(私にも)。だとすると、過密地域の人は、もっと過疎地を活用し、そのバランスを自らとることが必要だと思います。
 昨年報告のあった小津倶楽部などは、そうした交流が面白い効果を発揮している例だと思います。高尾はもちろん、恩方にも、滝山にも、平山にも各地にいろんな農山村の資源がまだ現役で残っていて私たちに大事な効果をもたらしてくれている。
 こうしたものはもう23区にはなかなかないわけで、子育て世代が東京都内で八王子に居住したいというのもこうした人間にとって大切な資源が残っているからだと思いますしかしまたたとえば夕焼け小焼けの広場にしても、実際に私も八王子に住んで10年経ちますが、なかなか十分に活用できていない。できていないまま、コロナだ、利用者数だという話になってしまうと、せっかくの資源がお荷物に感じられてしまい、その価値が不当に低められていきそうで心配です。
 大事なことはこうした過疎というか、農山村の価値は、これからより大きく高まってくる。わかっている人にとっては重要なもの、かけがえのないもので、失うと二度と取り戻せないものですが、誰にとってそれが大事かというと、本当は子供たちのためです。次世代の育成にとって、過疎・過密、自然と人間のバランスを崩すようなことを私たちの世代はしてはいけない。そういう意識でこうした住民の活動や、農家・畜産家さんたちの努力、そして各地の講演や直売所等の施設も見直して価値づけ直す必要がありそうです。
 確認します。問題は経済や財政ではない。価値です。そういうと「でもやっぱり経済あってのことではないか」と罵られそうです。現実にネットや新聞では私はそうしたことがわからない間抜けな論者のように扱われているのですが、発想を変えねばなりません。価値こそが経済を作るんです。価値がおかしいから、私たちの経済が行き詰まっているのだと考えましょう。八王子で目指したいのはそうした、正しい価値、みんなが共有できる、バランスのとれた価値の追求です。


②地域差と歴史、コミュニティの有無、南北問題

 もう一つの軸は、南北軸。要は多摩ニュータウンという場所の地域社会としての特異性が持つ問題です。
 このことは実は年末に出版した『地域学をはじめよう』という岩波ジュニア新書の最初に詳しく書いてみました。
 どういうことかというと、こうした新興の郊外住宅団地にはどうも地域がない、ということです。
 「地域」とは何か。私たちはこれを単なる空間と見がちですが、「域」の字は、戈を持った人々(口)が境界(一)を守るの意。集団なのです。またコミュニティと言う言葉も単なる集団ではなく、人々が義務を出し合って作る関係性の形を指します。
 マルセル・モース『贈与論』を念頭におくとよい。私たちは近代経済になれていて、経済は、Aを出したらBをえて(交換)、かつAの価値よりもBの価値の方が大きくなければならないと思い込んでいる。しかし経済競争というように、交換は必ずしも平和をもたらすものではなく、むしろ対立や戦争の引き金になるものです。これに対し、贈与は一方的にくれてやるものです。見返りを考えない。一見不合理に見えるが実はそうではなく、相手もまた誰かに贈与し、それを繰り返すと贈与は自分にも帰って来るというわけです。出すだけで見返りを求めないから、平和が保たれる。コミュニティとはそうした贈与のような、共同体に義務を果たすことをみながやることで、みながその恩恵にあずかれるという状態を指します。義務を果たす人は誰でも参加できる。
 人々が作る共同体が、今日の話の流れで言えば、共生のまちづくりの核になる、そういう人々のつながりそのものが、ニュータウンにはない。つながりの実態は日本の場合、具体的には町内会自治会という形で現れますが、その町内会がない。私も入りたいが2丁目にはその実態がない。
 それとは反対に、旧八王子町には立派な町会がいくつもあります。祭りも盛大です。全国に誇れる町会です。
 また農村部にも昔の村落共同体から派生した町会がある。だから混住化が進んでも比較的、社会としては健全に運営されているというふうに私などは見ます。
 またもうちょっと早い時期にできた団地なんかにもちゃんと町会がありますから、高齢化が進んで大変だという話もありますが、社会的には健全に見えます。
 問題は、隣近所が誰かわからないニュータウン地帯だと思います。そこにたくさん子供たちが今成長している。子供たちは地域を知らずに大人になる可能性がある。
 一つには、「個人情報保護法」の問題もあると思います。がなにより、日中、とくに男性は働きに出ていないので、そういう仕事と地域生活のバランスが非常に悪い人たちがここにはいるということかもしれません。ともかく家に閉じこもって人間関係がなかなかできない。
 とはいえ、階層性とか、出身地とか、世代とか、団地はモザイク状に多様な形をとってできているものです。似たもの同士が近くに住んでいる。この団地内交流をいかに促進してコミュニティに持って行くのか。本当に個人情報保護法でよいのか。別の条例なり何なりで町会問題は突破できないか検討する必要が今、コロナでみな心配に思っているからこそあるように思います。
 これはでも別にニュータウンだけでなく、今健全といった地域も同様な問題として経験しているはずです。世代が若いほど町会に入っていない。フリーライダーが多い。でもフリーライダーの末路は哀れだよと言うことを、参加した方が情報として伝えておく必要があるように思います。
 でもそもそも、入るきっかけがないというのが実態で、そこをなんとかしないといない気もします。無給ないし目的的な行政職員を採用して、お節介さんを公的に作ってそこに情報を流していけるようにするとか、オンラインの活用して参加者を増やすとか(お父さんは夜や休日しかいない人も多い)とか、ちょっと地域ごとに適切な作戦をもっと具体的に練っていく必要があると思います。
 その際に何か手がかりになりそうなのが、各学区で作っているコミュニティスクールです。子供たちのための学区コミュニティの形成は、わりと有効な手段だという気がします。実は過疎地でもやっていてうまくいっているところもあるようです。


③便利であることが持つ脆弱性


 新しい町は便利で自由です。しかし便利で自由だと言うことには罠があって、自然と人間の関係はそんなに甘くない。便利で自由だと言うことには必ず脆弱性がつきまとう。
 他方で新しく、便利で自由な町は、本来は活力の源であり、創発性、創造力の起点にもなるはずのものです。ニュータウンがそうなっているかと言えばそうは見えないが、若い人が多いのだからそうなっていくべきです。どうもやはり、ニュータウンはどこか疎外された町のようです。何か手を打つ必要がある。


④古い町、古い村、新しい町


 八王子には縄文遺跡あり、古墳あり、中世の城があって、江戸時代の街道が通り、八王子という江戸にとって重要な町があり、絹の道が通って海外にもつながり、近代の殖産興業の軸にもなった歴史豊かな町です。
 ここには古い村、古い町があり、また多摩ニュータウンでは最後に形成された日本でももっとも新しい町の一つがあって、いまもなお建築中です。
 地域が多様であることはこの市にとって重要な資源ですが、それぞれがちゃんと自立し、自治をし、そして互いに交流し合い助け合い、支え合わなくては、資源は宝の持ち腐れになります。


⑤自治体としての八王子市、現在の政府の二面性


 そのさい、かつては八王子町も、由木村や恩方村その他も、それぞれに自治体でしたが、いまこれをまとめてしまって自治体は八王子市しかありません。
 それ故、自治体としての八王子市の役割が非常に重要になります。今コロナで、政府の反応は明らかにおかしい。単純に言えば「多少死んでも経済が持てば政権は維持される」と思っていそうです。ある人に言われてゾッとしましたが、高齢者が死んだ方が、先々の医療費が減って政府は助かると思っている節があると。
 八王子市は私たちの町ですから、もちろんそんな考えはあり得ないと思います(先ほどの福山市ではそんな雰囲気が出てきていて不気味なんですが)。八王子市こそが私たちの砦です。
 今後の市民にとって、このタイミングで何を考え、どこに向かい、どんなふうにまちづくりをやっていくのか確認し、それぞれの役割を認識することが大切です。が、私も10年住んでいて、まだその感覚に乏しい。このタイミングでそれができるかどうか。何か市民のフォーラム、議会のあり方、市と市民の関係を、こうしたオンラインの技術も使いながら、革新していくことはできないか。

3.持続性と非持続性


①次世代をどう育成し、どんな町を引き継いでいくのか?


 ともかく2040問題を考えたとき、今はいいですが、このまま惰性で20年が過ぎていけば市民とってはきわめて危険なことになります。
 それも誰にとってかというと、今の子供たちにとってです。
 しかもまた問題なのは、出生率1.1台でそのまま計算すれば、子育て世代4人(20台から40台)で1人しか子供がいない。例えば選挙などを通じてでは、次世代のことを考える回路はきわめて弱い。自分たちだけがよいという考えも出てきそうで、実際にいろんな場面で(全国的にです)、あとのことは子供たちの世代で考えてやれと投げやりな態度も出てきています。
 しかし、今の中堅の老後を支えるのは、子供がいてもいなくても、次世代の子供たちです。そのままにしておくと、本当に姥捨て山みたいな状況が生まれかねません。お父さんたちは自分が子供の時何やったんだと。好き放題屋ってあとはお前たちでやれとは何だ。ならばお前たちの老後の面倒は見ない。そういう話にならないという筋書きの方が私には見えません。ともかく20年後を含めて今後どんな人口構成になるのか。どういう準備をしておけばよいのか。
 具体的な答えを出すのは難しそうですが、答えの方向性は単純です。世代間・地域間共生の実現以外にはありません。
 次世代の育成にやさしい町。希望する人が希望を持って子供を産み、育てることが可能な町。その子供たちを、この町の資源を十分につかって市民みんなで健全に育てていける町。そういう町に八王子をしていくことです。


②持続可能性とは世代間の継承


 持続可能性とは何でしょうか。それは世代間による地域継承(八王子市を未来の八王子市民にしっかりと手渡していくこと)の実現です。これが途切れるときが、地域の危機だということになります
 災害には、地震、津波、風水害、原発事故(過酷事故)、大火、凶作、パンデミック、さらに経済恐慌、テロ、パニック、政策災害(復興災害)と様々ありますが(私はそういうものの専門でもあります。『東北発の震災論』等をご覧ください)、実は人口減少も災害です。自然と人間のバランスが崩れていると言うことでは同じでしょう。しかも日本国家設立以来の、初めての変わった危機です。ふつうは人口は増えるものなのに、いまや減るのですから(縄文後期も同じだったらしいですがこれはどうも気候の冷涼化が原因のようです)。


③小さい地域を見習おう


 その時に、小さい地域こそ、ヒントになるようなことを実践しているものです。
 例えば小津地区では、送電線の関係で地域が持っている山林に入るお金を用いつつ、町会民が自分でも負担して、バスを持続させています(一般に共有林をそのまま持っている村は強く、バラしてしまった村は弱いとされる)。
 小さい地域は資源に乏しい面があります。しかしそれが守っている資源で、実は都市の生活を支えているわけで、その都市の方からの財政的な補助があれば、小さな町もしっかりつづいていくことができます。この送電線とバスの例は、そうした都会と山村のよい関係の絶好の例に見えます。「お互い様」が自然にできている。そしてこの関係を作り出しているのは都市住民ではない。小津村の人々の知恵や習慣です。実はこうした例は、過疎地をまわると良く出てくる。過疎山村の方が社会的な知恵は豊富です。そしてその中ではついに出生率を回復した例もあるようです。
 これは難しい話ではなく、小さな地域にソフトなどでお金をかけていくと言うことを、市民が当たり前のことと認めればよいということです。他方で地域住民がそれにきちんと感謝し、地域の維持や都市住民との交流のためにしっかり使っていくということができればよい。90年代まではふつうにやっていたことです。2000年代にこれが解体されて、東京一極集中・人口減少が止まらなくなったともいえます。人口減少=出生率の低下には政策の失敗の面があるわけです(拙著『都市の正義が地方を壊す』に詳述)。


④価値を見直そう


 人口問題という危機(2040問題)に向き合うのに、一番大事なことは、これは経済危機ではないということにちゃんと気付くことです。人口減少ははじめてなので惑わされるのかもしれませんが、これをイコール経済危機であるかのように私たちは誤魔化されています。この罠からどんなふうに逃れることができるか。人口減少は家族の問題であり、地域の問題です。市民の問題なのであり、解決できるのは国ではなく、市民であり市です。市民の共同・共生でしかありえません。
 逆に言えば、市民の共生の欠如が、出生率1.1台に現れているということもできます。子育てに厳しい町が、いい町であるはずがない。そういう町が経済的に活気ある町であるわけがない。
 どうやったらこの危機を切り抜けられるか。答えは簡単で、お互い様の共生をしっかり作っていくことです。「自分さえ良ければ良い」が結局は破滅への第一歩なのだということです。
 新型コロナパンデミックは見えにくい危機です。ましてこれはどうも「政策災害」です。コロナにどう立ち向かうか。それは八王子市民が八王子市民をしっかり支えることでしかありえません。地震や風水害だけが災害ではない。デザスターとは「暗い星」のことです。星が消えるまでみなで支え合ってじっと耐えるしかない。互いに支え合って。ではいまこの状況でそれができているでしょうか。では支え合いができない理由は何だろうか。何か工夫ができるのではないか。
 例えば、今回の被害者は飲食店の自営業者たちです。市民に共生の仕組みや仕掛けがもっとあれば、こうした自営業者たちからちゃんと買うことができるのでは?本当は市民は市民から買いたいのでは?買えないのは手段がないから。他にやりようがないので通販を使っているだけではないか。そこをつなぐ方法がないか。
 また本来どこも人手不足のはずです。一方で仕事を失う人たちがいますが、この労働力の非常事態でのあり方も何か工夫できないものか。私も何かと思いますが、研究者にはデータがないと分析できない。官民学の連携で見えてくるものがあるのではなどともどかしく感じています。たとえばこういうことを一つ一つチャレンジしていくことがきっと、出生率の回復につながるのだと思うわけです。

(令和3年1月24日 第12回共助のまちづくりシンポジウムにおける講演より)


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