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「生命」のために「人生」をあけわたしてしまうということ—感染拡大防止と私権制限—

◆ここ一週間の流れ


この記事を書いている2021年8月5日現在、東京の感染者数は過去最多の5042人を記録した。

当然、ここでいう感染者はあくまで検査で陽性反応が確認された人数ではあるものの医療現場はすでに崩壊しかけており、これを受けた(であろう)政府が示した中等症患者を自宅療養させる指針が物議を醸している。

さて、最近のこのような状況を受けてか本格的な私権制限を含むロックダウン(都市封鎖)を可能にする法整備を求める声が各所から改めて上がってきている。ひとまずここ一週間のロックダウンをめぐる動きを簡単に確認してみたい。
 

まず7月30日の政府の分科会では、一部の出席者から将来的にロックダウンが可能になる法制度の検討を求める声が上がった。 



しかし、同日の首相記者会見で記者の質問に対し、菅首相は「日本においてはロックダウンという手法はなじまない」と応答した。


 一方で今月1日に開かれた全国知事会では、夏の帰省シーズンに向けた県境をまたぐ移動の自粛の要請に加え、一部の知事からはロックダウンの法制化を求める声が上がり、政府に対する緊急提言がなされた。


知事会の緊急提言を受けた加藤官房長官は、現行の法制度でも各知事による外出自粛要請等が可能である一方、ロックダウンは強力な私権制限を伴うという課題があるとその必要性について否定的な姿勢を示した。



しかし、依然として感染者の増大と医療体制のひっ迫が極限を迎える中、これまで今後ロックダウンの議論がありうるとだけ述べていた分科会の尾身会長は、ここにきてロックダウンの議論の必要性を明確に示唆した。


以上の簡単な整理から分かることは感染拡大やそれに伴う医療体制のひっ迫という危機的状況に対応できない政府に対し、危機感を抱いた全国の知事や専門家からの間からロックダウンの要望があがっているという構図だ。

政府側のロックダウンに対する消極的な姿勢の背景には、私権制限に伴う経済への悪影響を懸念があるのだろう。

◆野党からの私権制限を求める声

ちなみに感染拡大防止のための私権制限を求める声は野党からもかねてからあがっている。
例えば立憲民主党代表の枝野氏は今年6月の「菅内閣不信任決議案」趣旨弁明で次のように語った。

日本国憲法は、公共の福祉に反しない限度で人権を保障しています。一人ひとりの人権がぶつかり合う場面での調整が不可避である以上、より重要な人権を守るために必要な範囲で、他方の人権が制約されるのは、人権そのものに内在した当然の法理です。
 感染症危機においては、命というすべての人権の前提となる最重要の人権が危機にさらされているのですから、合理的な範囲で経済的自由権が制約されるのは当然ですし、より重い移動の自由であっても、必要不可欠な範囲で制約されます。枝野幸男「『菅内閣不信任決議案』趣旨弁明」https://cdp-japan.jp/news/20210615_1553

なるほど、人びとの権利や幸せのためにはまず「命」がなくてはならない。そのためには一部の権利が制限されるのはやむを得ない。

医療体制がひっ迫している状況ならなおさらだ。緊急事態条項に訴えることなく、憲法に則ったうえでこれらを遂行しようという枝野氏の思考は一定の妥当性があるように思われる。

このような感覚は、おそらく先に見た全国知事会によるロックダウンの緊急提言の背景にあるものと同じだろう。



◆「生命維持」≠「人生を営むこと」

しかしながら、仮に我々市民が私権制限を受け入れる(いや、要望する)として、我々はそれと引き換えに失うものについてきちんと検討しただろうか? 

我々の生活感覚に基づき、そうなった場合に起こりうることに思いを巡らせただろうか? 

猛威を振るう新型コロナウイルスに対する危惧と同じだけの熱量で私権制限について考えただろうか? 

枝野氏は「命」が「すべての人権の前提となる最重要の人権」であると語った。しかし、生存権だけを残され他の権利が捨象された状態、ただただ「生物としての生命を維持する状態」は果たして人々にとって望ましいことかと言えば、きっとそうではないだろう。

人々が「人らしく生きるということ」は、その誕生から始まり、他者と出会い、会話し、触れ合い、愛し、そして他者と死別するといったすべてのエピソードの綾から成り立つ、無数のかけがえのなさから成り立つものである。

コロナが収束するまでの今この間だけでも我慢すべきだ

コロナ禍に入りこのようなメッセージはさまざまなメディアで語られてきた。しかし、こう言われはじめてすでに1年半が経つ。

新型コロナウイルスは収束するどころかそのより一層猛威をふるっている。一方で度重なる緊急事態宣言における自粛要請の影響もあり、人と会うことがまるで不適切なこととして扱われる空気が立ち込めている。

そんな中、我々は「人らしく生きる」感覚に対して鈍感になってはいないか、この「我慢」と引き換えに失ってきた数多の「人生の営み」を我々は忘れ去っていないか、改めて考えるべきだろう。

「我慢」によってもっとも取り返しのつかなくなるものの典型的な例は死である。死は人生で一度しかない、まさにかけがえのない一瞬である。

それは単なる「生物としての生命」の終わりというだけではなく、「人生という営み」の終着点であり、また、その人が取り結んできた人間関係との決別でもある。

当然、この1年半の間にもコロナへの感染の有無にかかわらず多くの死があった。これらの死はそれ以前の死と同じくかけがえのない一瞬だったはずだ。我々は死を筆頭にしたあらゆる「人生の断片」に立ち会うことを、この1年半で「生命維持」のためにあけわたさざるを得なかった。

これを法的根拠に基づいてますます加速させて良いのだろうか。。


◆私権制限の前に

筆者のここまでの危惧はイタリアの政治哲学者ジョルジョ・アガンベンのコロナ禍における危惧(アガンベン2021)を前提に、ここ最近の日本国内状況を筆者なりに整理した上で問題を提起したものである。

もっとも筆者はアガンベンほど徹底して行政権の拡大に対抗すべきであるとは考えていない。

とはいえ、日本の医療体制が現状のようになってしまった以上、遅かれ早かれ私権制限を伴うロックダウンがなされることになるだろうと予想するし、最終的にはいたしかたない部分もあると考える。

しかし、私権制限の強化とは、先に述べたように緊急事態宣言という他国と比較して緩やかな規制を、本格的に法的根拠を以って実行しようとするものである。

以上で見てきた点を踏まえると、分科会、全国知事会、野党の一部がロックダウンを志向する際に、私権制限で人々があけわたすことになるものがどれだけかけがえのない物か私事として十分に想像できていないように思われる。

繰り返す。「生命維持」のために私権制限を受け入れるということは、かけがえのない「人生という営み」をいつ終わるとも知れない緊急事態にあけわたすということである。

このことについて十分な議論もないまま、政府に私権制限を求めることに筆者は絶対に反対である。差し迫る状況とはいえ、我々はこれを安直に回答として据えるべきではないし、ギリギリまで「生命維持」と「人生を営むこと」の両方をあきらめるべきではない。

ましてや、私権制限以前に見直されるべき問題が山積しているにもかかわらずこれを放置してこの劇薬に手を出すということはあってはならない。


【参考文献】
ジョルジョ・アガンベン,高桑和巳 訳2021『私たちはどこにいるのか?』青土社
 
文責:鈴木颯太

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