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感染しないことと引き換えに失ったもの

 「Zoomの『待合室』ってさ、あれ、『待合室』にいる人同士でしゃべれないんだね。どうせ待つならやっぱり茶菓子が置いてあって、自販機が近くにあって、ベンチとかあって、そういうの想像するよね」

 リモートでのゼミが始まってしばらく経ったころ、ある教員が冗談交じりにそんなことを語った。筆者の所属する大学では今年度以降、新型コロナ感染拡大防止の観点から一部を除くほとんどの講義でリモート会議ができるZoomを用いた講義が始まった。Zoomの主催者(ホスト)は“会議”への参加希望者を、参加前に一度待機状態にすることができる。すでに進行中の会話を後から入った人に不意に聞かれないようにするための配慮として設計されているのだろう。この待機状態ではすでに参加している人とはもちろん、同じく待機状態になっている人同士でも会話をすることができない。会議の主催者が許可をすると晴れて会議室に入室できるという寸法だ。Zoomではこの状態を「待合室にいる状態」として表現される。この流れはオンライン上のやりとりなので、もちろん茶菓子もなければ自販機もベンチもない。このZoomの待ち時間に対する率直な疑問が冒頭の教員のつぶやきである。
 

 確かに考えてみれば新型コロナの感染拡大が言われるようになってからというものの、人と同じ空間を共有しながら他愛もないことを話す機会——それこそ「待ち時間にしゃべる」というような機会——が減った、というのが多くの人の共通理解ではないだろうか。筆者に関して言えばゼロに近い。なるほど、技術の進歩のおかげもあり、このコロナ禍においてであっても、企業のミーティングや大学の講義、果ては飲み会に至るまでリモートでできるようになった。移動時間や場所の確保もいらず便利になったという人も言えるかもしれない。しかし、これらは本当にコロナ禍以前にあった日常を代替するものになったと断言して良いのだろうか? リモートが当たり前になった者にとって、もともと生きていたコロナ以前の生活にあったにもかかわらず、今なくしてしまったものはないだろうか? あったとして、それは今後もなくて良いものなのだろうか? 今一度、この疑問を考えてみたい。
 

 思い出してみよう。とはいえ、たかだか1年ほど前の話である。例えば、大学生や筆者のような大学院生の場合、ゼミや講義が始まる前にはキャンパス内のベンチや研究室で仲間と他愛もない話をしながら支度をした。それが終わればまたくだらない話をしながら、片づけをし、共に帰路につく。そこで話されることと言えば、同じ時空を共有しているからこそ生まれる意図せざる話題、あそこのラーメンが美味いだとか、今日の課題に対する不満があるだとか、これから行くバイトが自分には合ってないだとか、今ハマっているアニメがあるだとか、実は恋人との関係に悩んでいるだとか、そんなことである。そんなことではあるが、そんなことから生まれる必要性のない、でも大切な関係がたくさんあった。我々が感じる人間らしさはこうした意図せざる「ひょんなこと」の中からこそ、生まれてきた側面が多かれ少なかれあったのではないだろうか。それらは時に学業や仕事仲間という関係を超え、深い友人関係や恋愛関係というものに昇華しうる種子となることもあったのではないだろうか。

 それでもコロナ前にできた人間関係を継続できる人はまだ恵まれているかもしれない。今年度から新入生や新社会人になった人、職場が変わった人に至っては、人間関係がゼロの状態からのスタートである。こういった人たちの中には、リモートでの作業が一般化し「無駄」で「不必要」な時間が無くなることによって、新たな人間関係を築くことに困難さを覚えた人も少なくないだろう。筆者もまたまさに2020年度からここ東京都立大学の入院した大学院生である。Zoomでのゼミという限られた環境と時間の中で、大学の雰囲気や在学生の人柄を把握し新たな人間関係を構築するというのがこんなにも難しいものかと思い知らされたし、省かれてしまった時間が大切なものだったということに気付かされた。元来、大学院生は孤独になりがちな立場ではあるが、なお一層の孤独感と寂しさを感じたというのが正直なところだ。

 話を戻そう。コロナ禍ではかつて当然のように行われていた対面での仕事や講義、同じ料理を囲みながらする会食はネガティブに扱われるようになってしまった。同じ場所と時間を共有し、人と接するということがここまで憚られる社会は、少なくとも我々が生きてきた人生において他になかっただろう。それは新型コロナの感染拡大を考慮する場合仕方のないことなのかもしれない。一方で、その空白を埋め合わせるべく、さまざまなテクノロジーが我々を支えてくれていることも事実であり喜ばしいことではある。

 ただ、その中であっても先に述べた通り、我々は社会制度やテクノロジーによって削られてしまった大切なものが本当にないのか取りこぼしたものはないのか、常に考え続けるべきだろう。場合によってはそれらに対し抗議の意を示すことも必要になるのかもしれない。イタリアの政治哲学者ジョルジョ・アガンベンは昨年3月の時点で、イタリアで出された行動制限に関する措置に対し次のように語った。

 この措置のうちに暗に含まれている自由の制限よりも悲しいのは、この措置によって人間関係の零落が生み出されることである。それが誰であろうと、大切な人であろうとも、その人には近づいても、触ってもならず、その人と私たちのあいだには距離を置かなければならない…(中略)…私たちの隣人なるものは廃止された(Agamben, 2020 高桑訳,2020「感染」『現代思想』48-(7))

 幸いにも(不幸にも?)、日本ではイタリアほどの「行動制限措置」はなされていない。その代わりに国民同士の「自粛」が「要請」されているという語義的に不思議で厄介な状況である。その意味では、我々においても、この1年間で人との距離感を考え直さざるを得ない状況が生じていることは変わりはない。どうやら、アガンベンはこの状況を悲観的に見ている。

大学や学校が閉鎖され、授業がオンラインだけでおこなわれ、政治的文化的な話をする集会がこれを限りと中止され、デジタルなメッセージだけが交わされ、いたるところで機械が人びとのあいだのあらゆる接触——あらゆる感染——の代わりとなりうる(Agamben, 2020 高桑訳,2020「説明」『現代思想』48-(7))

 筆者もまた、このような状況が一時的な「例外状態」として終わると楽観的に考えることができないでいる。それは我々が”濃厚ではない淡泊な状況”——直接人と会い、マスクの着用に神経質になることもなく、他愛もないやりとりができない状況——に慣れてしまうということに対する危惧である。我々がこれらに対する不全感を忘れてしまう前に、現状の社会制度やテクノロジーが取りこぼした、些細ではあるけれど人間関係に潤いをもたらすものを絶えずしていかなければなるまい。そう考えるとリモートワークにどっぷりつかった我々が、「会議の待ち時間に、知り合いが大勢いるにもかかわらず、好きな人と好き勝手に世間話ができない状況」に対し、違和感を持ち続けることこそが案外重要なことなのかもしれない。

2月20日 鈴木颯太

【以下、編集より】

 今回は、感染症対策という「非日常」が大学院生の「日常」の大事な部分をいかに奪いつつあるのかという視点から、鈴木さんにエッセイを執筆してもらいました。日常生活における対面的な相互行為からこそ生み出されるものは、大学院生だけでなくさまざまな社会の場面で重要な位置を占めていたことはいうまでもありません。コロナをめぐって私たちが問題にしなければならないのは、引用されていたアガンベンの問題意識にもありますが、われわれの日常なるものは今やきわめて政治的なものに変容してしまっており、規制や介入の対象となっているということだと思います。この時、規制や介入が一時的なもので、危機を収束させるための統治としての対応であるということを超えて、これがいまや全面的に常態化し、日常はもはや取り戻し難くなりつつあるということは、コロナ禍の1年が経過した今さらに考えなければならない問題としてある、ということでしょう。

 このコメントを書いている3月19日現在、延長された緊急事態宣言が21日に解除される方針が発表されましたが、解除が妥当なものだったのか、そもそも緊急事態宣言は感染症対策として有効だったのか等々、言いたくなるようなことは色々とありますが、いずれにせよ結果として事態は収束していないこと、我々の日常は一年経っても戻っては来ていないということは言えると思います。「感染しないこと」が通常の価値を超えてしまっている今の状況が続けば、われわれの日常、社会的な生は、簡単に失われてしまうだろうというアガンベンの警告は、決して大袈裟なものではないはずです。

 前回の更新からずいぶん時間が経ってしまいましたが、震災10年、コロナ1年の3月を機に、また更新を続けていきたいと思っています。このページについて、またコロナ関係の記事や批評の紹介にあたっては、こちらの記事をご覧ください。

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