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社会的共通資本を考えるシリーズ特別編~文化人類学から考える 社会的共通資本~

2024年4月、社会的共通資本を考えるシリーズ特別編として、「文化人類学から考える社会的共通資本〜負債と信用の人類学〜」を京都 瑞泉寺で開催しました。

社会的共通資本はその地域に住む人々や環境により変わります。文化人類学的視点から浮かび上がるものを考えていきたいと思います。文化人類学者・小川さやかさん、独立研究者・森田真生さん、哲学者・谷川嘉浩さんの3人で『負債と信用の人類学』を手がかりに、『ブルシットジョブ』『万物の黎明』のデイビッド・グレーバーも深掘りしながら考えていきました。

前半は小川さやかさんの講演、後半は3人でのパネルディスカッション(社会的共通資本としての"場所"と"贈与")となります。


小川 さやか
1978年生まれ。京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科一貫制博士課程指導認定退学。博士(地域研究)。専門は、文化人類学、アフリカ研究。日本学術振興会特別研究員、国立民族学博物館研究戦略センター機関研究員、同助教、立命館大学先端総合学術研究科准教授を経て現職。主な著書に『都市を生きぬくための狡知―タンザニアの零細商人マチンガの民族誌』(世界思想社、2011年。第33回サントリー学芸賞受賞)、『「その日暮らし」の人類学―もう一つの資本主義経済』(光文社、2016年)、『チョンキンマンションのボスは知っている―アングラ経済の人類学』(春秋社、2019年、第8回河合隼雄学芸賞および第51回大宅壮一ノンフィクション賞受賞)ほか。

谷川 嘉浩
1990年生まれ。哲学者。京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程修了。京都市立芸術大学美術学部デザイン科講師。
『人生のレールを外れる衝動のみつけかた』(ちくまプリマー)新書、『信仰と想像力の哲学』(勁草書房)、『スマホ時代の哲学』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)など。共編著に、『〈京大発〉専門分野の越え方』(ナカニシヤ出版)、『フューチャー・デザインと哲学』(勁草書房)、『ネガティヴ・ケイパビリティで生きる』(さくら舎)など。

森田 真生
1985年東京都生れ。独立研究者。東京大学理学部数学科を卒業後、独立。現在は京都に拠点を構えて研究を続けるかたわら、国内外で「数学の演奏会」「大人のための数学講座」「数学ブックトーク」などのライブ活動を行っている。初の著書『数学する身体』で小林秀雄賞を最年少で受賞。2022年『計算する生命』で河合隼雄学芸賞受賞。他の著書に『数学の贈り物』『僕たちはどう生きるか』、編著に岡潔著『数学する人生』がある。

【前半】小川さやかさん講演

デヴィッド・グレーバーにはさまざまな著作がありますが、言わんとするところは一貫しているように思います。

『価値論 人類学からの総合的視座の構築』では、「価値とは、行為が、現実あるいは想像上の、より大きな社会的全体の中に位置づけられることによって、行為者たちにとって意味あるものになる仕方」であると述べています。

平たくいえば、王様の権威が成り立つのは、私たちがへりくだったり、特別な待遇をするからです。ある日とつぜん「よう、元気?」とみんながタメ口で話しかけるようになれば、権威そのものが成立しなくなってしまう。

『負債論──貨幣と暴力の5000年』では「負債は返済されなければならない」という道徳観念を人類史的な視点から考察しています。そもそも「借りたお金は返さなければならない」という考え方そのものも、私たちがそのような行為を積み重ねてきた結果としてつくり出されているわけです。

逆にいえば、自分たちが望ましいと考える社会に生きているかのごとくふるまうことによって社会は変えられる。グレーバーの『ブルシット・ジョブ――クソどうでもいい仕事の理論』が話題になりましたが、クソどうでもいい仕事なんて一斉にやめてしまえばいい。それができないのは、私たちが「現実あるいは想像上の、より大きな社会的全体」にあるからです。そして、私たちの「行為が、現実あるいは想像上の、より大きな社会的全体の中に位置づけられることによって、行為者たちにとって意味あるものになる仕方」は、もちろん社会によってまったく異なります。

ちょっとわかりにくい話をしていますが、だんだんわかってきます。

なぜ「負債は返済されなければならない」のか?

グレーバーは『負債論』のなかで「商業経済は比較的に新しいものであり、 人類史のほとんどの時代は、人間経済が支配的であった」としています。ここでいう人間経済とは、社会的通貨を使用する経済であり、経済システムの主要な関心が「富の蓄積ではなく、人間存在の創造と破壊、再編成である」経済を指します。

社会的通貨とはなにか。ある地域では、花嫁を迎えるのに牛100頭を支払う慣行がある。これは花嫁ひとり=牛100頭という等価交換がなされているように見えますが、そうではありません。「この素晴らしい花嫁を迎えるには、自分たちが大切にしている牛をこれだけ差し出してもまだ足りない」と伝えるための行為だとしています。つまり人間経済において、人間は唯一無二の存在であり、貨幣や物と交換できるようなものではないと考えられていたわけです。

その理由についてグレーバーは、 それぞれの人間が持つ人格は、他者との諸関係の結合中枢(ネクサス)となるからだと説明しています。花嫁は誰かの妻や母、あるいは仲間や教育者となり、家族や地域においてさまざまな形で人間関係を創造するハブになっていく。それは牛100頭、あるいは別のものと代替できない独自の価値を持つものです。

ところが人間経済が商業経済へと移行するなかで、人をその人たらしめている歴史や関係性といったものから人間を切り離して、あたかも市場で交換可能な財のように、形式的に平等で根本的に同じ種類のものとみなす暴力が働いているのだといいます。

ここで鍵としているのは、互酬性に対する批判です。「何かしてもらったから、自分もなにかお返しをしよう」というのは互酬性です。これは公平で望ましいことのように感じられますが、グレーバーは、互酬性などというものは市場交換と同じように均衡のとれた交換原理に過ぎないと喝破しています。つまり「あなたの宿題を手伝ってあげたから、私の代わりに掃除してね」というのは、パンとお金を交換する行為となんら変わらない。まるで市場交換のような互酬性をベースに社会を考えているために「借りたお金は返さなければならない」というモラルの混乱を生み出してきたのだと指摘しています。

では、互酬性に回収されない人間関係のあり方とはどのようなものでしょうか。ここでグレーバーはコミュニズムの問題を取り上げています。ここでいうコミュニズムは共産主義のことではありません。コミュニズムにある状態とは「いかなる収支決算もなされていないのみならず、それを考慮することさえ不快とみなされている、あるいは端的に異様であるとみなされている」状態であり、あらゆる人間社会に存在するもので、人間の社交性の基盤であると述べています。たとえ資本主義経済のように市場交換をベースとした経済システムでさえ、コミュニズムなしには機能しないとしており、これを「基盤的コミュニズム」と呼んでいます。

ふだん私たちは「ちょっとタバコの火貸して」「お醤油とって」というとき、わざわざ貸し借りを計算しませんよね。 誰かが遅刻してきても「あいつはこういうやつだからな」とか「子どもが生まれたばかりで大変なんだろう」というように、個別の人格や置かれた状況を勘案して大目に見ることもある。つまり人々の行為は、一律の指標では測れないものと見なしているわけです。

ところが会社や学校では、そうはいきません。企業の業績、生産性や効率というものは、それぞれの人間が持つ人格や社会的な文脈を無視することで初めて計算可能になるからです。あいつ仕事が遅いけど恋人にふられたばかりだから仕方ないとか、個別の事情をいちいち勘案していたら、 給料の計算もできなければ、パンを100gいくらで売るかも値づけできない。私たちはそう信じていて、これこそ商業経済がいつの間にか人間経済を凌駕してしまった証左であるといえます。

人間は形式的に平等なのだから、同じ条件で成果を測られなければならない。玉の輿に乗ろうが不幸な結婚生活を送っていようが、借金を減額するようなことはあり得ず、返済できないのなら従属関係を受け入れるしかない。負債の源泉にあるのは、このような前提だということです。

このようにして、それぞれの人間が持つ人格や社会的文脈は計算不可能であるという人間経済の前提は失われ、お金や数値によって換算される商業経済に席を譲っていくことになります。

贈与は「人生の保険」になるのか? タンザニア商人のセーフティネットとは

これに対して、私が調査しているタンザニアの商人たちは、商業経済を通じて獲得した財を、いったん人間経済のなかで循環させ、再び商業経済に回帰しているように思われます。それぞれの人間が持つ人格や社会的文脈を切り捨てることなく、むしろその違いに賭けることによって、人間経済を商業経済の不可欠な一部として組み込んでいる。その理由を考えていくことが、社会的共通資本について考えるヒントになるのではないかと思います。

タンザニアの商人のうち、国内で銀行口座を持っているのは、わずか20パーセントほど。その日暮らしで貯金に回すゆとりがない、固定の住所がないので口座を開設できないという人もいますが、それだけが理由ではありません。中には1億円くらい転がしている商人もいますが、銀行預金はない。それは商売で稼いだお金を別の事業に投資したり、不動産を購入したり、あるいは友人知人が困っていれば分配してしまうためです。

私たちの常識では、露天商で小金を貯めたら店を構え、さらに会社を興すというように事業を拡大していくと思います。ところが彼らは露天商として成功すると、別の露店を出したり、あるいは別のビジネスを始めて、まるでアメーバのように増殖していきます。そして「商売に失敗したから金貸してくれよ」と言われれば惜しみなく貸し与えてしまう。

この理由について経済学者たちは、不確実性の高い環境においてリスクを分散する戦略ではないかと分析してきました。ポートフォリオを組むのと同じように、10種類の商売をすれば、たとえ3つ失敗しても7つ残る。さらに貧困層が多いことから、相互扶助が社会的規範となって、困った知人や縁者に手をさしのべなければ糾弾されるのではないかというわけです。

それに対して私は、彼らは生計多様化戦略と贈与を組み合わせることによって、したたかな人生の戦略を持っているのではないかと考えています。

彼らは商売で稼いだお金を銀行に預けるかわりに、誰かに贈与・分配して、自分に借りを持つ人間というかたちで貯蓄している。そして自分が困ったときには、貸しのある人の中から、お金や技能、情報など、その時々で必要なものを引き出しながら、自分の商売を立て直していく。いうなれば市場経済と贈与経済を交互に繰り返すことによって生き延びていく戦略をとっているのではないか。

たとえば衣料品店でちょっと成功したから、次はタクシー業でもしようかなといって中古自動車を一台買う。その車は失業中の若者に貸してやり、収益から数パーセントずつ払ってもらう。数年経つと「十分働いてくれたから」といって車をあげてしまう。そして今度は仕立て業でもやるかとミシンを買って、やはり仕事がない女の子にミシンを貸す。この繰り返しによって、ねずみ算式に生計は多様化していき、一方で自分に借りを持つ人が増えていきます。

このことを彼らは「人生の保険」だといいます。将来どんな仕事が流行るかわからないけど、いろんな仕事をすれば、どれかは成功するだろう。人生なにが起こるかわからないから、あらゆる種類の人たちに貸しをつくっておけば安心だ。商売の手を広げるほど、いろんな人と友達になれるじゃないかと。

よく自己啓発の本で「生き残るためには得意分野を3つ持とう」などと書かれていますが、タンザニア人はそんな努力はしません。それよりも自分に余裕があるときに誰かに何かをしてあげる。もしパソコンが壊れたら、「そういや、あいつプログラマーになったって聞いたな」と思い出して電話してみる。別に自分が英語やプログラミングができなくても、かつて親切にしてあげた誰かができるかもしれない。だから何が起こっても大丈夫という発想で生きているわけです。

このような贈与を介して築かれる「人生の保険」は、私たちにとっての銀行預金やコネ、出世払いとは根本的に異なります。

そもそも彼らの商売は浮き沈みが激しく、仕事もしょっちゅう変わります。助けた相手は落ちぶれてしまうかもしれないし、「タダでタクシーに乗せてくれるかも」と思ってお金を貸したところで、明日には運転手を辞めているかもしれない。つまり彼らがいう「人生の保険」とは、就職や出世を当て込んだ投資ではないし、将来有望な相手に貸しをつくってコネを積み上げていく戦略とも違います。

相手は社長になるかもしれないし、詐欺師になるかもしれない。でも自分が詐欺に遭ったとき、有益なアドバイスをくれるのは詐欺師の友人かもしれません。自分が将来どんな困難に陥るのかわからない以上、どういう人間と関係を築くべきかを考えたところで、さほど意味はない。できるのは、ただ目の前にいる人間に与えることだけです。

このようにして彼らは、偶然に出会ったさまざまな人間に贈与して、いつか自分が必要になるまであえて放置することで、「借りを持つ人間」を預金の代わりに増やしていきます。

私たちの分人は贈与を通じて無数の人生を生きていく

マルセル・モースは『贈与論』で「贈り物に対する返礼が起きるのは、贈り物に憑りついたハウ(精霊)が与え手の元に戻りたいと望むからだ」という説を紹介しています。贈り物には贈り手の霊が憑りつくとするなら、私たちは贈与を通じてさまざまな人間に憑りつくことができるはずです。

こんな話があります。木材店を営む若者が商売に失敗した。手持ちのお金がないので、後払いで仕入れさせてほしいと木材問屋に頼みにいく。すると木材問屋の女性が「あんた、死んだ甥に似ているね」という。

死んだ甥は家具職人をしていた。甥も不器用で商売下手だったけど、器用で評判の職人になったのよ。あんた甥にそっくりだから、家具職人になりなさいよ。そういって甥が愛用していた道具をくれるわけです。
数年後、彼に会うと、本当に家具職人になっていました。そして、もらった道具に触れながら「道具の手入れをしていると、あの女性のことを思い出すんです」という。僕はまだ駆け出しだけど、腕を磨いて、いつか自分が作った家具を彼女にプレゼントするのが夢なのだと。

贈与された道具には、木材問屋の女性のハウが憑りついています。 「甥のような職人になってほしい」と願う彼女の分人、あるいは亡くなった甥自身の分人とともに彼は生きていく。

ただ、すべての贈与に与え手の人格が宿るわけではありません。飲み会でビール一杯おごられたからといって、そんなことは起こらない。でも、もし自分がクビになったとき、励ますために開かれた飲み会だとしたら話は別です。「この贈与を受け取ったことで人生が変わった」「あの出来事があったからこそ自分は生かされている」。そんな贈与には与え手の人格が憑りつく。そう考えると、タンザニアの商人たちが失業して落ち込んでいる友人を助けることは、マイ分人をばらまく作戦であるといえます。

個人が個人で完結するのではなく、贈与を通じて撒かれる分人の集合体として存在すると想像するなら、自分自身が努力して知識や技能を身につけなくても、生き延びる可能性は広がります。でも、そのときどきに助けてもらうことがパソコン修理だろうとスリの手ほどきだろうと、本当にわかち合っているのは、それぞれの人生の岐路、運命のようなものです。それぞれ自身と違う人生を歩んでいて、それぞれが互いの人生になんらかの役割を果たしながら「同じ船に乗っている」という妄想を共有しているのであって、財産や知識を共有しているわけではない。

それは翻って、人間はそれぞれの生き方をすればいいのだと正当化することにつながります。みんなが同じ商売をしていたら、うまくいかなくなったとき逃げ道がない。警官になるやつもいれば詐欺師になるやつもいて、地元にとどまる者もいれば香港に出稼ぎに行く者もいる。生計手段も考え方もばらばらであるほうが「みなでひとつの人生」においては望ましい。

将来が不確実であるからこそ、贈与という不確実な賭けを通じて、それぞれの人間が持つ運命に委ねる。自分が困ったときには、きっと誰かひとりくらい助けてくれるだろう。セーフティネットが整備されなくても、そう信じられる社会ができていく。

さまざまな相手に少しずつ贈与することで、人生の保険が増えるだけでなく、誰かに託した分人が相手の人生とともに生きていくことになります。

木材問屋の女性は、いつか家具がほしいから道具を贈与したわけではありません。彼女の分身は、いつか腕のいい家具職人になるかもしれない男の人生を生きていく。他人に託した分人を通じて複数の人生を生きていく。人生が多様化していく感覚が楽しいわけです。

ただ気をつけなければならないのは、贈り物に憑りつく分人は、受け手の人生を台なしにする毒にもなり得るということです。ハウ(hau)は動詞になると「鼓舞する」「先導する」という意味を持ちますが、そのほかに「台なしにする」「攻撃する」という意味もあります。

木材問屋の女性から託された道具が日夜「甥のような職人になれ」とか叫び続けたら、めちゃくちゃ怖いですよね。

贈り物に託すハウは、相手の人格、人生のままならなさを無視して、贈り手自身の要望を強制したり、同一化を求めるものではあってはならない。 贈り物にどれだけ軽やかな人格を乗せるか、あるいは自分自身と分人の距離を取るかということが大切です。

私たちはなぜ他人の所有物を見て、豊かさや地位を推し量るのか

なにかを贈るということは、自分自身の一部を贈ることだとモースは述べましたが、 自分自身の何者かというのは、それは自分自身の一部であり、すべてではありません。だとすれば「贈られる自己」と「贈られずに保持される自己」の関係を問うことが大事なのだと文化人類学者の森山工さんは言っています。

マダガスカルでは集合墓があり、そこから祖先の骨を分骨してもらい、自分の墓を立てるそうです。それは祖先から連なる系譜のなかに私自身の系譜を新たにつくる行為です。このとき祭宴が開かれ、食事や酒、さまざまなものがふるまわれる。

自己の譲れない境界を確立するためには他者の承認が必要であり、そのために譲ってもかまわない自己の一部を贈与するのだと森山さんは述べています。自分の家族や仲間をつくりたい、自分自身の系譜あるいは生きた痕跡を残したい、これは金持ちになりたいなどという願いよりも、ずっと以前から人類が持っていた欲望です。

グレーバーは『価値論』のなかで、「ハウ」で知られるマオリ社会と、どちらがたくさん贈り物をしたか競争し続ける「ポトラッチ」で知られるクワキゥトル社会を対比しています。

マオリ社会では、全員がたったひとりの神様から同じ血筋を引いていると信じられています。ともすれば溶け合ってしまう世界観のなかで自己を確立するには、なにか際立ったことをしなければならない。そこで西洋人と接触したマオリ族の貴族たちは、競って独自の宝物を贈り、「自他の境界」を承認してもらおうとします。マオリの歴史に登場するのは、贈り物に宿った誰かの内面、贈与と互酬についての物語であり、具体的になにが贈られたかという記述は出てこない。

それに対してクワキゥトル社会では、それぞれの部族や親族が異なる神話的起源を持つため、お互いを比較するには共通の土台をつくらなければならない。そのため貴族たちは、自分たちの名声を計る均一の指標となりうる毛布の蓄積に力を注ぎました。のちに毛布は貨幣に代替されるようになります。クワキゥトルの歴史には、富や所有物に関する説明はたくさん出てきますが、内面の話はいっさい出てきません。

ふたつの社会は、グレーバーのいう人間経済と商業経済の対比にも重なって見えます。

私たちが生きる資本主義経済の市場では、クワキゥトル族と同じように富や財を蓄積したり、役職や称号を得ることで自他の境界をつくっているわけです。 他人の所有物を見ては、豊かさや地位、趣味を推し量る。本来は別々の存在であるはずの人間を形式的に同じであるとみなしたばかりに、互いを比較する指標を競って追い求める。人間としての内面は顧みられず、健康指標や感情知能指数のように数値に換算可能な指標ばかりが増殖し続けていく。

もちろんタンザニアの商人たちも資本主義経済の中で生きている以上、金銭的な豊かさ、役職や業績という指標で自他を区別する世界を受け入れています。でも彼らの多くにとって、こうした指標はことごとく自己の確立を不安定にするものです。お金や学歴、専門技能もない彼らは、夢を抱いて都会に出てきたにもかかわらず、行商や靴磨きなど誰でもできる仕事を渡り歩き、気づけば雑業層に埋もれてしまう。たとえ成功して小金を得たところで、いつ転落するかわからない。

そこから抜け出すにはどうするか。手っ取り早いのは、贈与を通じて自己を確立することではないか。割引価格で売ってあげる、友人の無賃乗車を見逃してあげる。たったそれだけのことで、その他大勢の露天商や運転手とは違う存在として感謝され、承認してもらえます。

タンザニアの商人たちは、商売に失敗すると、かつて助けた相手のところに行って「まあ飲めよ。君からお代なんかもらえないぜ」とか「とにかく君が生きているだけで俺は嬉しいよ」などといわれて安心するわけです。経済的な成功は手に入れられないかもしれないし、有名になれないかもしれない。でも自分はたしかに誰かをつくったのだと誇りに思う。それは子孫を残すのとは違うかたちで、自分の分人が後世に生きていくのだと信じられる。

この方法は、一見すると遠回りのように見えるかもしれません。商売で稼いだお金は貯金して、知識や技能に投資してスキルアップするほうが早道かもしれない。商業経済で稼いだお金を再投資する際、わざわざ贈与のプロセスを入れるのは、いかにも面倒です。でも資本主義経済で得られる承認とは違う承認がいつでも選べると信じられることは、幸せなことでもあるわけです。

この贈与プロセスを社会的共通資本について考えるきっかけにしていただけたらと思います。個人的には、贈与に面白いハウ(精霊)を載せられればいいんだと思います。

【後半】パネルディスカッション:社会的共通資本としての"場所"と"贈与" 小川さやか・谷川嘉浩・森田真生(文化人類学者・小川さやかさん、独立研究者・森田真生さん、哲学者・谷川嘉浩さん)

「贈与」は意図したとおり相手に届くとは限らない

森田:先ほど、さやかさんの講演で「贈与を通じて自分の分人を周囲に撒く」というお話がありました。

それで思い出したのですが、M.B. ゴフスタインの『ピアノ調律師』という絵本があります。息子夫妻を亡くしたピアノ調律師のおじいさんが孫娘を引き取ることになった。自分は調律師の仕事に誇りを持っているけれども、暮らしむきは楽ではない。孫娘には「もうすこし良い仕事」に就いてもらいたいと思っている。できることならピアニストになってほしいと、一生懸命ピアノを教えます。それこそが孫娘のためにしてあげられることだと思っている。ところが孫娘はピアノ調律師になりたい。日々の暮らしのなかで、おじいちゃんがどれだけ仕事に誇りと喜びを感じているかがちゃんと伝わっているからです。

「伝えたい」ことと「伝わる」ことは違う。だから、贈り手が意図していないものを相手が贈与として受け取る可能性もある。

小川:そう思います。「この人に贈与しておけば、いずれ出世払いで返ってくるに違いない」なんて面白くもなんともない。それよりも、おごった相手は詐欺師になっちゃったけど、自分が詐欺に遭って困っていたら助けてくれたり。ある行為が回りまわって予期しない方向に展開していく。そんな不確実性に賭けることが面白いとタンザニアの商人たちは思っているんですよね。

森田:本を書くこともそういう不確実性に身を委ねる面がありますよね。伝えたいことと伝わることは違っても、真剣に発せられたメッセージは、魔法のように「伝わる」ことがある。谷川さんの新著『人生のレールを外れる衝動のみつけかた』も、まさにそういうことを書いていました。その人のなかにある、どうしようもなくそうせざるを得ないなにかが、結果として他の人にも伝播していく。

谷川:「好きなものが見つからない」という学生がいますが、たとえ表面上は同じ対象が「好き」に見えたとしても、細かくみれば、あなたを突き動かすものと私を突き動かすものは違う。自分を突き動かす欲望の固有性に向き合ったほうがいい。でも皮膚を境にした確固たる個人、「私」という堅固な自我を想定していたら、たぶんそういう欲望は見つからない。

ピアノ調律師の例がそうですが、私たちは他人から欲望に火をつけられる。自分を動かす欲望というのは、 それぞれの固有性のぶつかり合いのような気がして、内と外をあまり明確に区別していると、相手の固有性から何かを受け取ることもできなくなるんじゃないのかという話を書いています。

小川:だって「ピアニストになれ」「金持ちになれるぞ」なんてガチでいわれたら、100パーセント違う道に進むと思うんですよ(笑)。「いい大学に行け」「業績を上げなかったら失格だ」なんていう欲望を贈与に乗せられたら、受け取り手はダメになってしまう。

それよりも偶発性に任せて、贈与の結果がどうなろうと、ままならぬ人生がどのように転がっていこうと、それを面白がるくらいがちょうどいい。明確でないからこそ、いかようにでも解釈して人生の糧にもできます。

なぜ「ブルシット・ジョブ」は増え続けるのか 「場所」を喪失した人々は不確実性の排除に向かう

森田:グレーバーの著作に『ブルシット・ジョブ――クソどうでもいい仕事の理論』がありますが、ブルシットって直訳すれば牛の糞、要するに肥やしですから、すごく大事なものですよね。

小川:独特な解釈で(笑)。

森田:これは半分冗談ですが、半分本気で、牛の糞=価値のないものというメタファーを自明なものとして使ってしまう発想を、僕はあまり素直に受けとめることができなくて。

小川:ブルシット・ジョブって、特定の仕事について価値の有無を論じているわけじゃなくて、「この仕事やって何の意味があんねん」と自分で思いながらも、まるで意味があるかのようにやることですよね。

私は大学教員ですが、シラバスや申請書の作成に追われていますし、良い申請書の書き方講座なんかがあって、そこに参加するための書類を書いて、さらに参加者アンケートを書かされる(笑)。延々と生み出される謎仕事のおかげで、教育や研究の時間がなくなってしまうわけで、本末転倒です。

しかも大学では毎年、自己評価を記入しますが、そこで重視されるのは、シラバスと実際の講義内容がどれだけ一致していたか。つまり事前の計画通りに履行できたかどうかで評価されるので、シラバスの内容から変えにくい。でも仕事って本来、何が正解かわからないまま不確実性に賭けて、軌道修正しながら進んでいく、その連続ですよね。大学教員なら、最新の潮流を取り入れて、学生と討論しながら柔軟に講義内容を変えていく。それなのに書類作成に追われて、学生一人ひとりの話を聞く時間がなくなり、アンケート結果で5点満点中何点という指標で評価される世界になっているわけで、まさにグレーバーのいうところの商業経済が人間経済を凌駕している状況です。

谷川:アンケートを取ること自体が目的化していることも往々にしてありますよね。その背後にあるのは、偶発性や予測不可能な将来をなるべく排除したいという欲求だと思います。 「この講義を受ければ、こういう能力が身につきます。その能力は学位授与方針の◯番に該当します」とあらかじめシラバスに書かれていて、予定調和的に進んでいく世界。

根底にあるのは、不安なのだと思います。未来が見通せる計画や根拠がなければ、この授業は、この組織は、社会は、私自身の人生は、うまくいかないに違いないという不安。もちろん理想を掲げることは大切ですが、理想を実現するために偶然性を排除するという手法が果たして適切なのだろうかと。それは小川さんがおっしゃっていたタンザニアの社会とは真逆の世界であるように感じます。

小川:テクノロジーが発展するほど、さまざまなことが計算可能になり、予測可能な領域は拡大していきます。いまや出生前診断で将来の疾患リスクも判定できるし、寿命さえ予測できる。その結果、偶然性や不確実な要素を排除することこそ正しいリスク管理だと考えられ、計算不能な領域があるということが、ふとわからなくなる。より複雑な数学理論を使えば、もしかしたら無意識の構造まで明らかになるのかもしれないけど。

森田:テクノロジーの問題もあるのかもしれないけど、僕はむしろ場所の問題に関心があります。

たとえば、会議室で聞けば、違和感を感じない発言も、山道を歩きながらだと不自然に感じる場合がある。大学事務所でスタッフが忙しく働いている中、アンケートや書類を書いてくださいと言われたらそれなりに説得力があるかもしれないけれど、山の中だったら、「なにかおかしくない?」となる。

アミタヴ・ゴーシュという作家による『The Nutmeg's Curse(ナツメグの呪い)』という本があります。インドネシア・バンダ諸島ではナツメグがよく穫れた。16世紀の初頭に、オランダの入植者たちは当時希少だったナツメグを手に入れようと交渉しますが、地元民は断ります。山は生きていて、神聖な場所だから、無闇やたらに立ち入ってはならないと。業を煮やしたオランダ人たちが武力に訴えると、地元民たちは山の中に逃げる。ところがオランダ人たちは山の中では太刀打ちできないので、最終的には原住民を直接攻撃する代わりに、彼らを守っている環境を破壊し始める。

大事なポイントは、「山は生きている」という思想を成り立たさせているのが場所であるということです。かつて山に入ったとき、たしかに「山は生きている」と理屈抜きで感じられた。その場所を失ってしまえば、「山は生きている」と主張できる根拠も失われてしまう。

ある場所においてしか通用しない命題というのがあって、逆に、ある命題の意味を支えている場所がある。ここ瑞泉寺もそうです。贈与というものに対する感覚を育むうえで、その基盤になるのは、やっぱり場所なんじゃないかという気が僕はしています。

小川:私たちの場所って、どんどん改変されていますよね。主流となる資本主義経済からちょっと外れたところにある穴のような場所、インフォーマルな場所が侵食されて、蒸留化された空間に変化させられている。

森田:「空間(space)」と「場所(place)」の哲学についていくつかの重要な本を出している哲学者のエドワード・ケイシーさんは、西洋哲学の歴史が長いあいだ正面から主題として取り上げてこなかった「場所」の概念に着目して「空間」との違いを強調しています。特に著書『The Fate of Place(場所の宿命)』では、本来、固有の来歴や文脈とともにあった「場所」の概念が、その固有性を極限まではぎ取られ、ついには「位置」の区別しか持たない「空間」にまで単純化されてきた歴史を描き出しています。

なぜ「場所」を維持するのか 変わらない風景が「私」という存在をつくり出す

森田:場所の親密性よりも空間の可能性に賭けてきた近代ですが、現代においても「身体」の重要性はしばしば強調されます。身体とは、場所を究極に切り詰めたもので、いかに場所が空間に置き換えられたところで、身体の固有性まではいまのところ排除できていない。
僕たちが暮らしている世界では、自分の身体が滅びるよりも速いスピードで場所や風景が変わっています。場所=「私」という感覚は退化して、身体=「私」というところまで追い詰められている。その結果、自分の身体が滅びたら、そこですべて終わりなのではないかという発想まで成り立つようになる。

場所や風景がめまぐるしく変わっていくなかで、身体よりも長く続く場所の感覚を喪失しパニックを起こしているというのが、いま僕たちがいる状況なのではないか。

小川:もう少し恒常的な場所性を復興させなければ、私という自我に苦しめられると。

森田:私があるという感覚を持てることは素晴らしいことですが、その場所を身体まで切り詰めてしまっていることが苦しいのだと思います。

たとえば身体の不調を治そうとするのと同じくらい真剣に、環境の変調に向き合い、場所の修復にお金をかけてもいいはずです。

小川:社会的共通資本のひとつが場所だと。

谷川:その想像力は、森田さんなら持てるかもしれないけど、世の中の大半の人がそうではないから物事が変わらないのではないかと思っていて。その想像力を起動するトリガーは果たしてなんだろうなと。

アリストテレスは場所について議論していたという話がありましたが、それは彼がフィールドワークをしていたことと密接な関係があるように思います。アリストテレスは生物学を好み、ギリシャの各地を巡って動植物の生態を記述していました。仲間や協力者たちと現場に赴き、観察対象から何かを受け取る行為を通じて、場所というイメージにたどり着けたのではないか。つまり想像力を起動してくれる導き手、トリガーとなるものが介在していたように思います。

小川:私がより魅力的に感じるのは、場所を保持していく以上に、同じ場所、たとえば都会のオフィスにいながらも「自然は好きだけど虫はイヤ」という意見に対して「いや、虫がいて当然だから」と、みんながそう言い始めたら変わる。たとえ山に行かなくても、まるで空気をつくるようにオルタナティブなモードをもたらすことで場所を変えられることが面白いと思っているんですよね。

森田:モードを変えるとき、人間の力だけでは限界があるのではないでしょうか。

谷川:でも私たちの大半が都市に住んでいて、人工物に囲まれて、そこに存在する自然すら人の手が入っている。そこで育った子どもが一本の木を見て何かを感じるには、自然だけではどうしようもなくて、やはり導き手となる人の介在があるのではないかと思います。

アリストテレスにとってはフィールドワーク仲間だったかもしれないし、森田さん自身、庭師さん、樹木や虫について教えてくれる人、それから子どもの存在があったのではないかなと。

森田:それはそうですね。自然と人間は切り離せないので、人間との関係はもちろん大切です。ただ、そこに人間だけでなく、より多様なものたちが関わっていたほうが、学べることが多いと思います。

「あなたは花を咲かせている」と気づかせてくれることも贈与になる

森田:とにかく僕は、自分の体が終わったらそこまでだという思想はつらいと思っています。よりシンプルなのは、自分たちの身体を大事にするのと同じように、身体をとりまく場所をケアしていくことです。

小川:自分の体が終わったら私がなくなってしまうのがつらいという感覚はどこからくるのか、もうちょっと知りたいんですけど。

森田:身体まで範囲を限定してしまうと、生きる意味や幸せはすごく感じにくい。

小川:でも、さっきの話じゃないけど、贈与を通じて自分の分人を託した人間が生き続ける、あるいは自分がつくった公園は死後も残るという感覚を持って生きている人は少なからずいるような気がする。

谷川:自分の人生を超えた継続性を感じている人ばかりではないと思うんですよね、現代社会では。こんな書類を書いてなんの意味があるのか、自分の人生そのものさえブルシットだと感じている人もおそらく一定数いると思うんですよ。

でも、たとえば自分が書いた本は死後も図書館に残るかもしれない。思いを託した贈与を受け取って、それを伝達してくれる誰かがいるかもしれない。少なくとも、そうなるかもしれないという現在期待を抱くことができる。

私が哲学者になったきっかけは、高校時代に倫理の授業でプラトンを習ったことです。二千数百年昔、古代ギリシャのアテナイでソクラテスの言葉に感銘を受けた彼の言葉は、時間を超えて、日本の片田舎に住む高校生に伝達されたわけですよね。そうして言葉のバトンが渡ってきたことに感銘を受けました。

森田:それは鳥が鳴くとか、花が咲くとか、そういうことに似ていると思うんです。花が咲いて、意図していない誰かにすら何かが伝わる。それが連綿と続いていく。そういう意味では、本を書くこと、日々のささやかな会話、周囲を掃き清める行為、どんなことでもなにかに連なっていく希望はある。

谷川:冒頭の講演は、「自分が花を咲かせているかもしれないと思えないシステムの中で生きている」という話だったのかなと思いました。では、そのシステムからどう脱却するかといえば、私はやはりガイドとなる人間の介在が必要ではないかと思います。

花が咲き、枝が風に揺られている。そこに美しい花があるよ、きれいな音だねといってくれる誰かがいるかどうか。「いまの一言はよかったよ」と言ってくれる誰かがいれば、私は私なりの花を咲かせていて、そのことがすでに誰かにとっての贈与なのだと気づけるかもしれない。でも、そんなふうに気づかせてくれるトリガーとなる「誰か」がいるのかどうか。

いまの人たちを見ていると、良くも悪くも互いに一線を超えて踏み込まない。ある意味おせっかいな無償の善意というものが存在しにくくなっている気がしていて、ここには立ち止まって眺めるべき問題があるなと思います。

小川:動物や植物は意識せずに贈与しているかもしれないけど、人間は考えちゃいますよね。何かしてあげたら、私のハウが相手を驚かせてしまうんじゃないかと思うから贈与しにくいし、お返しを受けても戸惑うし。しかも放置できないですよね。メールは早く返さなきゃいけない、何かもらったら同等のものを返さないといけない、借りたまま返さずに持っていたら借りパクと思われないかとか(笑)。

でも、そんなふうに考えすぎると贈与は重くなってしまうので、それこそ虫が蜜を運ぶように、気軽にできることがあるからやっておくくらいがちょうどいい。目の前に悩んでいる人がいたら、ちょっと爽やかに声をかけてみるとか。それは返ってこないかもしれないし、どんな帰結になるのかよくわからない。贈与する側も受ける側も、もうちょっといいかげんにやってもいいんじゃないかなと思います。

社会的共通資本と未来寄附研究部門の取り組みをご支援いただく窓口として「人と社会の未来研究院基金」を設けています。
特定の一民間企業からの寄附で運営されることが多い通例の寄附講座とは異なり、様々なセクターから参加をいただくことを目指しております。https://sccf.ifohs.kyoto-u.ac.jp/fund/

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